ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

商売の手際について

先月から、思い出すと不愉快になることが一つあります。一言で言えば、「商売」つまり「ビジネス」の原則をどのように理解しているかという点です。
以前、インドネシアからヘブライ語インドネシア語での二言語表記の旧約聖書を注文しようとして、どうにもこうにもコミュニケーションがうまくいかず、しかも送金方法が非常に煩雑だったことがあります。何らかの機会に、ブリズベン在で、聖書協会世界連盟のコーディネータをされているインドネシアご出身のスシロ先生にその旨もらしてしまったところ、こちらはそのつもりでなかったのに、ご多忙中、わざわざご自分で出向かれ、「何とか手に入れたよ」とご連絡の上、送ってくださったのです(参照:2010年1月13日付「ユーリの部屋」)。恐縮したのですが、そのお代をお支払いする方法が新たな悩みとなってしまいました。
パプア・ニューギニア在住の聖書翻訳宣教師として、スシロ先生と以前から家族ぐるみで親しくされている日本人のM先生にご相談したところ、「私の口座に振り込んでくれたら、取り次ぎをしても良いですよ」「または、これはプレゼントとして受けとってもいいのでは?」「外国経験の豊富なスシロ先生だから、はっきり聞いても大丈夫ですよ」などと助言をいただきました。これまた、私のような立場では恐縮の連続で、たった一冊の外国語訳聖書を望んだばかりに、これほどご迷惑をおかけすることになるとは....。
そもそも、インドネシアの窓口がしっかりしていさえすれば、簡単に手続きができたことです。もちろんスシロ先生の方も、長い諸外国人とのやり取りのご経験から、自国あるいは他国とのコミュニケーション上の問題をご存じだろうことなので、恐らくは、責任者としてご厚意から労してくださったのでしょう。ご親切にはとても感謝しておりますが、目下なすべきことは、窓口の係をしっかり教育することと、もしできないならば、必要以上に手を広げないことではないかとも思っています。

マレーシアでも、1990年代前半には、郵便物が途中で紛失したり、注文がいつの間にか取り消されてしまったりしていました。なので、いつでもこちらから出す手紙はどんなものでも、必ずカーボン紙で写しを取っておくか、職場のコピー機を拝借して、ファイリングしていました。電話をかけてみて初めて、出したはずの郵便物が届いていなかったことが、お互いに判明したこともあります。
このようなことは、リサーチ意識を持つ者にとっては常にストレスの種で、勢いに任せて、ペナン発行の『消費者新聞』なるところへ手紙を送ったことがあります。驚いたことに、それが「困った外国人からの投書」として大きく掲載されました。
Missing letters trouble Japanese teacher’−You Said It in “Utusan Konsumer”(Mid-September 1994, No. 312.)

そうはいうものの、組織として公的に文献や本を販売している場合、問題は起こりにくいものです。係の人が対応をきちんとして、公の領収書も出している上、もし何かあれば、上司なる知り合い(多くは海外経験有)に伝えることで、即座に解決するからです。マレーシアのカトリック教会の本屋さんや、プロテスタント主流派組織、福音派組織の場合、ちらしやホームページ上に広告を出して宣伝し、送料なども(カトリックの場合は海外用に国別の)銘記があるため、こちらはただ、注文書とリンギット小切手をエアメールで送れば済むのです。
シンガポールの神学院で売られていた書籍を購入した際には、こちらがシンガポール・ドルの小切手帳を持っているわけではないため、留学時代からの米ドル口座を保有している主人の同伴で、大阪市内の都市銀行まで行かなければならず、少し複雑になりました。ただ、さすがは貿易立国だけあってか、諸手続きや説明がマレーシアの2〜3倍は速く、大変に気持ちのよいものでした。

問題は、個人で本を販売し始めた場合です。必ずしもこちらがお願いしたわけではないのに、メールを通して、「これはどうだ」などと次々に本を紹介してきた人がいました。自分なら通常価格より割安にする、という触れ込みです。10年前からずっと何かとお世話になってきたこともあり、アマゾンで調べても売ってはいなかったため、単純には断り切れず、本当に関心のあった二冊のみ、注文することにしました。
何冊かテーマ毎にまとめてリストにして紹介してくれるならともかく、一冊ごとにメールが連続して来るので、こちらの返事も煩雑になります。「とりあえず、今回は二冊だけ注文するから、送料はいくらですか?」と尋ねても、「ちょっと待て」と、別の本を紹介して来ました。ある時など、数年前に「友情の証」として無料で送ってくれた同じ本が、なんと70リンギット(約2100円以上か?)と値をつけて「これはどう?」とメールを寄こすのです。
その時には、こちらも毎日忙しいために、「悪いけど、その本、昔は無料で送ってくれたじゃない?アドバイスとして、人に紹介する前に、記録を取っておいた方がいいと思うけど...」と書き送った途端、びっくりしたことに、「そんなことを言うなら、もうあんたの注文はキャンセルする。前に送ってきた小切手も、使ってしまうからな。こっちからもアドバイスするけど、そんなに送料いくら、と聞くな!」と脅しのような返事。
いくら何でもそれはないでしょう?そもそも、頼んでもいないのに、売りつけてきたのはそちら。お金を払うのはこちら側なのだから、送料はいくらなのか聞くのは、小切手を切る上でも必要なコミュニケーションでは?私は、返信用切手も同封して連絡しているのですよ。
これまでのやり取りから、私だけに親切に教えてくれるのかと思っていたのですが、あまりに非効率的なやり方をしているので、フェイスブックを開いてみると(参照:2010年12月21日・12月23日付「ユーリの部屋」)、なんとマレーシアの周囲の神学生達や聖職者達にも、他の本を毎日のように次々と紹介しては売っていることが判明。
お金もほしいのでしょうから、本を売る商売を始めた気持ちはよくわかりますが、問題は、近くのマレーシア人に手渡しで売っているのみならず、海外にいる私にまで紹介して売ろうとしている点。そこはよく考えてから始めるべきなのに、どこから探してくるのか、せわしなく、続々といろんな本を紹介しては、注文をとっているのです。
フェイスブックのやり取りを見ていると、マレーシア人同士は、くだけたマレーシア風英語を使って、「じゃ、一部ね」「ほいきた、ボックスに入れとくよ」「あ、こっちにも一冊」「よし、注文受けた」なんて感じです。(余談:以前から感じていたのですが、では私のような外国人もマレーシア風にくだけた言葉を使うべきなのか?これは、断じてノーです。使う言葉によって、社会階層も教育程度も推し量られる、と教えてくださったのは、まさにマラヤ大学の指導教官のマヤ先生でした。(参照):2009年5月13日・2010年9月21日付「ユーリの部屋」)

...というわけで、この不快なメールが来たのは、昨年のクリスマス前後のこと。その時には、さすがにこちらが折れることにして、「実は、フェイスブックを見るまで、そんなにたくさんの本を毎日いろんな人に売っているなんて知りませんでした。こちら日本では、年末年始には大勢の人達が年賀状を交換する習慣があって、郵便物が紛失する可能性もあるから、心配で尋ねたまでです。でも、本を買う者としては、注文して送料がいくらかかるか聞くのは当然の義務でしょう?そのやり方、ちょっとおかしくありません?とにかく、今後は他の本屋さんで買うから、今回の二冊分と送料、お願いしますね」と、書いておきました。すると即座に、「あんたの言うことは正しい。じゃ、今週中に送るよ」と向こうも謝罪の言葉と共に書いてくれたのです。
まぁ、あまり期待もしていませんでしたが、案の定、一ヶ月ほど経ってもなしのつぶて。本当に紛失したかもしれないので(以前、確かに送られたはずの別組織からの書籍が届かず、お互いにびっくりした経験もあるゆえ)、昨日もう一度メールを出しました。すると...
またもや、「もう別の本屋で注文しな。これが最後!」と怒ったような返事。
あのねぇ、こちらはあなたのお金儲けビジネスを配慮しているつもりなんですよ。お金がほしいのかいらないのか、まずそこを考えたら、そんな高飛車な態度、取る方がおかしい。自分からふっかけておいて、そんな話、ないでしょう?以前、私に「ここは何でも民族別の扱いなんだ」と不満そうに言ったけれど、私の見るところ、そうとも言えませんよ。だって、あなたと同じ民族の人でも、もっと素早く上手に商売しているケース、いくらでも知っていますモン...。と、これは本人には言えませんが、ブツブツ...。
主人に言わせれば、「そんなの、相手にもならん話だ。アメリカだって、いろんな民族の人が集まっているから知っているけど、第一、気楽なおっさんのやっていることじゃないか。なんで、そんな変な所にエネルギー使っているんだ?神学系の本なら、神学院内で本屋を立ち上げて売るべきなのに、勝手に個人で始めるから収拾がつかなくなって、ユーリに八つ当たりしているだけだよ」。
まぁねぇ、仰せはごもっともです。でも、いろいろ長年のしがらみというのか、そこの講師をしている人達とも友人としての関わりがあるので、この件で私に関する不評なんかを立てられたら、今までの屈辱的な思いをしてまでの努力が水泡に帰すわけですよ。だから、何かと気を遣って、相手を立てているんですが、そのおかげで、どれほど時間のロスが生まれたことか。
これがグローバル化の光と影の一例、なのかもしれませんね。最大限、想像してみるに、本人としては、いきなりパソコンで本を売る商売を始めて得意になっているのでしょう。でも、規模や金額を考えたら、個人ベースではなく、組織内で書籍コーナーを立ち上げて公的な取り引きにした方が結局は無難だと思うのです。当初、私はてっきり新たなセクションができたのだと勘違いして、小切手を組織名宛に送ってしまいました。すると、「自分の名前で小切手を送り直せ」と指示が来たので、「じゃ、前のを返してくださいね」と、切手同封で申し送りしたのです。しかし未だに、前の小切手は届かず、新たな小切手を切ろうにも送料を提示せず、です。これでは、何のためのビジネスなのか、わけがわかりません。

一言、誤解なきよう申し添えるならば、この件で、その人を責めているのでは決してありません。似たような事例を、この日本でも、最近、経験しました。やはりインターネットで商品(本棚)を紹介している京都市内の某取次店ですが、一体、売る気があるのかないのか、電話で問い合わせても、埒があかず。こちらが尋ねているのに、何だか自分中心な応対をし、勝手に「じゃ、注文キャンセルしておきましょうか」などと抜かすのです。それはないでしょう?買うかどうかを決めるのは、こちらなのです。そうやって顧客を失っておいて、「政治が、社会が悪い」なんて、言わないでくださいね。