ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

高校の同窓生名簿から

猛暑もあと数日のような気配が漂ってきました。寒くて疲れるとは聞いたことがありませんが、暑さはどうも人をぐったりさせるものですね。体調はよいのですけれども、なんとはなしに気怠さのような感じがします。

ところで、偶然知ったのですが、この「ユーリの部屋」をリンクしてくださっている方が予想以上に多くてびっくり!「リンク自由、でも一言ご連絡を」と書かず、これまでカウンターもつけずにいたので...。私よりも主人の方が意識していて、「カウンター出したら」とか「もっときちんとしたサイトに移行して、専門家の目に留まるようにしたら」と助言してくれていましたが、まだ始めたばかりなので、様子見ということで遠慮していました。読んでくださっている方が知り合いに数人いるのは確実ですが、それにしても、未知の方々がリンクまでしてくださっているとは...。書いている内容から判断させていただくと、牧師、オーケストラ関係者、子育て中の主婦、といった顔ぶれのようです。お目を留めていただき、誠にありがとうございます!今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます!

昨日、最新版の高校同窓会名簿が届きました。巻末の索引を見ていて、妹も同じ高校出身だったのをすっかり忘れていたことに気づきました。つまり、私達は同窓生同士なのでした!!弟は町内の別の県立高校でしたし、妹とは、仲がいい姉妹だとあまり言えない関係でしたので...。クラスメートの中には、連絡先が空白のままの人や未婚女性も何人か含まれているのを見ていると、遠い昔の若い頃の記憶が少しずつ蘇ってきます。こういう感覚は、当時は想像もできませんでしたが、この歳になったからこそのものですね。

先週の主人のいとこの葬儀で、幼い頃の主人を可愛がってくれた本家のおじさんが「ちょっと同窓会に顔を出してくる」と途中で出て行った時、(こんな日には家にいた方が...)と思ったりしたのですが、名簿を見ていると、何だか私もそろそろ同窓会なるものにも出席してみたくなってくるのが不思議です。

いわゆる進学校の典型として、毎日の授業と補習、部活(水泳部)の練習、帰宅後は一時間以上のピアノの練習、そして宿題と予習復習、試験の準備、これに明け暮れた日々でした。高校の3年間、私が毎日願っていたことは、ただひたすら(試験や明日のことを思い煩うことなく、思いっきり眠ってみたい)という他愛のないものでした。ですから、大学に合格が決まった時には、(あぁ、これでやっと安心して眠れる)と喜んだものでした。何だかわびしい青春時代ですね。

田園地帯に建てられた新設校でもありましたので、知名度は低い割に、先生方が非常に熱心でしたし、生徒達も田舎っぽくて素直で真面目、自転車通学の人が大半で、保護者にとっては、経済的で安心できる高校だったかと思います。今から思えば、そういう学校で伸び伸び育つ方が極めて健全だとわかりますが、なぜか当時は、名古屋市内の高校生の方が「レベルが高い」「大人っぽい」ように感じられて、根拠なきコンプレックスを持っていたように思い出されます。

同窓会名簿を見ていると、男性は別として、職場名は書かない女性の方が断然多いのも特徴的です。かくいう私も(妹も!)空白にしています。同窓会では、出世した人の自慢話が普通だと聞きますが、私達の世代はどうでしょう?どこに勤めているかということよりも、どのように暮らしているか、話が合うかどうかがポイントのような気がしますけれども...。あと、高校生時代はパッとしなかった人が、同窓会では輝くようになっていたなんていうのも、よく聞く話ですが、どうでしょう?私なんて、当時よりも絶対に太ってしまったので、何て言われるかなぁ。「ちっとも変わってないねぇ」と言われるがオチなのでしょうけれど。
整ったきれいな顔立ちでスタイルも美しく、成績も抜群によく、しかもスポーツ万能の女の子がクラスメートにいました。唯一の「欠点」は、遠視気味だったということだけです。すごくモテる子で、隣町に住んでいましたが、私など話しかけるのにもドキドキ緊張しました(←なんで?)大学に入ってから、一度だけ有志で集まったら、彼女が「私もう婚約していて、21歳で結婚するの」と言い出し、先生も含めて皆びっくりして、うらやましがるやら何やら...。でも、結局のところ、どういうわけか、すぐに破談となってしまい、名簿によれば今もシングルのようです。美人が「女の幸せ」を決めるものではないんですね、って私なんかが言ってもいいのかどうか...。

両親は、名古屋市内のいわゆる伝統校の出身でした。当時は家庭の事情で高校にも行かせてもらえなかった人が多かった中で、四年制大学まで進学させてもらっていたのですから、本当に恵まれていたと思います。主人も大阪の伝統校に進学しましたが、やはり卒業生の進路が、妹や私の出身校とやや格違いのところがあります。伝統校を経由すれば立派で有名人になれるのかと言えば、必ずしもそうとも限りませんが、「出世株の人」が多く出る学校というものがあります。もっとも、超有名人が出ているわけではない私達の高校でも、東大京大にストレートで進学する人がいましたが、先生方の間で、スケールが大きく、リベラルで進歩的な考えの持ち主が非常に少なかったことは確かです。どちらかと言えば、名古屋生まれの名古屋育ちは「名古屋の学校に行って名古屋で就職して名古屋の人と結婚する」という保守的な雰囲気が強かったように思います。ほとんどの人達は、平凡でも安定した暮らしを望み、今もそれを幸せに感じているのだろうと思われます。ただし、名簿からは、海外在住の人達も結構いることに気づきました。

私が辿ってきた進路を振り返ってみると、結局のところ、居住地の雰囲気がなせる業という面も大きかったことがわかります。妹や私の場合、なぜ伝統校に行かなかったのかと言えば、中学の時、既に大方進学先が決まってしまっていたからです。というよりも、名古屋市内の伝統校を受験したいならば、親と共に相当強い意志と目的を持って、担任教師に申し出なければ許されないとされていたのでした。例えば、音楽家になるため高校の音楽科に進みたいならば、普通科しか設置されていない高校はダメということになります。しかし、中学生の本人だけでは、それを訴えることはできないため、親同伴でということになるわけです。私の学年には、一人そういう女の子がいました。同じ軟庭部でしたので、よく覚えていますが、その後、ピアニストとして活躍しているという話も聞きません。今、どうしているかなあ...。もう一人は、「もっちゃん」と呼ばれていた色の白い女の子で、併願の私立高校は、私も彼女と一緒に同じ所を受験して合格しましたが、本当に行きたいのは名古屋市内の伝統校だとのことで、一人で別のところを受けに行っていました。大学は確か、奈良女だったような...。

新聞紙上では、高校受験の悩みを訴える中学生の記事が多かったように記憶していますが、そういうわけで、私達の場合、上位100位までは同じ県立高校を受けると自動的に決まっていたので、特に悩みもプレッシャーもありませんでした。同じ中学出身者は、高校入学当初は仲良くしているものですが、そのうちにささいなことがきっかけで、いろんな子がくっついたり離れたり...。若い頃は何かと動揺しやすいものですが、今から思えば、皆、成長過程にあったのですね。

以前、マレーシアから帰国後に、芸大の名誉教授からピアノを習っていたと書きました(「ユーリの部屋」2007年7月1日)。先生は広島の呉出身で、小さい頃ある方に才能を見出され、「こんな所にいてはだめだ。東京に行きなさい」と言われて、小学校の時から東京の祖母と一緒に暮らして、現在の東京芸大の前身に当たる専門学校を卒業されたそうです。

今年いただいた年賀状には「もう80になりましたので、仕事はこの辺で一区切りつけます」とのことで、いささか淋しく思いましたが、昔の女の先生方は、本当に違います。働く専門職の女性が極度に限られていた中で、お姑さんとの同居もし、子育てもしながら、よくここまでお仕事を続けられて、と感嘆します。ちょうど、緒方貞子先生と同世代の方なんですが、私のマレーシアの話を聞いてすぐに「緒方さん、あの方すごいわね」と持ち出され「あなたも頑張りなさいね」とおっしゃったのが、この先生だったのです。気持ちの上だけは、緒方先生のスピリットを受け継ぎたい、というところなのですが。あ、緒方先生のお話は、またいつか書かせていただきますね。

先生は環境と才能に恵まれていらしたから、と言ってしまえばそれまでですが、クラシック音楽の世界を日本国内で高め広げていくというのは、今でも並大抵のことではありません。102歳まで長生きされたお姑さんに「職業婦人」とよく揶揄されていたと愚痴をこぼされていましたが、相当の覚悟と努力が必要だっただろうと思うのです。私としては、ピアノを教授されたという経験以上に、このようなお話を生で聞かせていただけたことの方が貴重な思い出です。

その先生から、女学校の同窓会の幹事をされた時の苦労話も聞かせていただきました。「大変だったのよ。夜泊まる時、誰と一緒の部屋にするか決めるのでも、本当に昔の細かいことを、みんなよく覚えているのねぇ。‘あの人には昔あんなこと言われたから、絶対一緒になりたくない’とか何とか。最後はクジにしたんだけれど、それでもまだ文句言う人がいてね」とのことで、私など遠慮なく笑ってしまいました。「昔とった杵柄」じゃない、「食べ物の恨みは恐ろしい」じゃない、なんて言うんでしょう、こういうの...。この世代の方達で女学校に行けたのは、裕福な家庭のお嬢さんか、よほど親が開明的で娘の教育に熱心だったかのどちらかだ、とよく聞きます。私の母方の祖母も女学校出ですが、想像してみるに文句を言う口だったかも??? 

ここで妙な話を思い出してしまいました。大学院の頃、バッタリ高校の同級生と名古屋駅で会いました。久しぶりの再会で話が弾んだのはよかったのですが、彼女が突然言い出したには「高校の時、私の方がユーリちゃんより英語の成績がよかったのを覚えている。だから、私の方が良い大学に行って、良い人生歩めるかと思っていたのに、今じゃ逆転してるもんね。私は院試に落ちて研究生してる。ユーリちゃんはストレートで院に進み、修了後は海外に行けると決まっている。なんでなんで...」。「なんで」と言われてもねぇ。でも、高校時代の英語の成績の上下まで覚えられていたなんて、ちょっとショックでした。名簿によれば、彼女は今も実家に住むシングルで、県内の精神医学センターで活躍中のようです。そういう人生だって素晴らしいじゃないですか。

物故者の名前が時々掲載されていると(あれ?先生じゃなくて?)と思ってしまうのですが、目をこすって見直して、元同学年の人だったりするのがわかると、愕然とします。一緒に同じ入試を受けて、3年間という時を過ごし、卒業したのに、こうして人生のトータル時間まで違ってきてしまうのですね。

私らしく、一日一日を大切に充実させて暮らしていこうと改めて思います。