ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

千畳敷の思い出は遙か彼方に

昨日の誕生日に際して、大勢の方々からお祝いの言葉をフェイスブック上でいただきました(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)。どうもありがとうございます。
実は、満半世紀を記念して、主人と白浜の千畳敷へ行ってきた。ここは、私が一歳十ヶ月と七歳の時に訪れた思い出深い場所である。特に、風が強くて非常に寒かった七歳の時のことは、今でもよく覚えている。そして、浜辺の岩に父が石ころで日付か何かを刻んだことも記憶に明白だ。私もまねをして刻もうとしたが、力が弱くて何もできなかったことさえ覚えている。
(お父さんは力が強いなぁ)(自分がここへ来た証をお父さんは印につけているんだ)と思ったことは、今でも忘れ難い。
今回、刻んだ場所を朧気ながら探し出したが、「落書き禁止」の立て札があり、もちろん、父の刻んだ文字は消えていた。
あの時の強風を伴う寒さが、今回の汗ばむほど湿気を伴う曇り空との対照で、相殺されるかのようだった。
その頃には生まれてもいなかった末子によって、42年後、長子である私の許可なく、むしろ理解を一方的に強制されて(「いろいろ言いたいことがあるかもしれませんが、ご理解下さい」)、父の名前が永久にこの世から消されることになろうとは、当時、誰が予想できただろうか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)。
要するに、最近、一部流行(?)の樹木葬のためだ。桐島洋子氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080319)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130629)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140923)や日野原重明氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070723)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090228)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090324)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090829)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090831)など、誰もが知る著名文化人は、何もしなくても名を残すことができるので、「自然に還る」などと唱導しても問題はないのだろうが、一般人にとっては、お墓石に名を刻む家族伝統を否定してしまったら、本当にマルクス主義よろしく、家族の解体、宗教はアヘンということで、何も残らないのだ。
この頃では、どういう理由なのかよくわからない「残された人達の負担や迷惑にならないように」という一見もっともらしい理由で、葬儀を簡単にお安く済ませ、お墓参りを否定する風潮が出現している。一生懸命生きて、生命の循環をバトンタッチした結果、年に二回ほどのお墓参りをそれほど負担だと思わせているのは、一体全体どこの誰なのだろうか?親を樹木葬にして名を消すということは、普通、残された者にとって相当に抵抗があるのではないだろうか。自分達は汗水垂らした労働の糧である遺産をたっぷり受け取って、仕事も子どももあって、ぬくぬくと暮らしておきながら、自分の存在基盤である親を銘記する年に二回ほどの数時間を「負担」だと考えることは、果たしてどこから出てくる思想なのだろうか。
私など、ヘブライ語がわからなくてもテル・アヴィヴのお墓参りに一人で出かけ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150830)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151023)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151101)、父が亡くなる二ヶ月ほど前には(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121225)、古い英語文献を見て知った、ペナン島シンガポール1800年代に活躍したキリスト教宣教師のお墓を探し当てたので、自分の親を想起するのに何が迷惑で負担なのか、本当によくわからないのだ。
私の誕生がうれしくて仕方のなかった父の様子(「この頃、赤ちゃんが急に増えたなぁ」「うちの子はハイクラスだ!」)をたくさん写真に残してあるアルバムを見ていると、一体全体、どうしてそんな結論に至ったのかが理解できない。二十歳の成人式にも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150113)、振り袖姿の横で、私以上に満面笑みを浮かべて祖母の家の庭に立っている父の写真があるのにである。結婚式にも出席し、婚姻届の署名も義母と父が証人となっている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)。胆石の手術の時には、主人とシンガポールに行く予定を取り止めて、麻酔手術の経過を見守った。快気祝いも父から届いたのだった。しかし、納骨式の連絡さえ、我が家には来なかった。終わって数日してから、メールで「済ませました」と、事務連絡があったのみ。
いくら夫が進行性難病で16年を経過している生活だからと言っても(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)、その結果として孫資金が不要だからと言っても、「済ませた」なんて、馬鹿にし過ぎではないだろうか。その他に、何が問題だというので、そんな「存在の耐えられない軽さ」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090225)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090319)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090323)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090324)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090326)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090411)を強いられるのだろうか。通常の国民としての義務をきちんと果たし、社会的地位はないが自分達の力でまっとうに生活をし、二十代から三十代にかけて、夫も私も、公的な立場で海外で仕事を遂行するだけの信用や能力や機会を与えられていたのだ。今だって、病気以外には特に問題なく暮らしている。将来の備えも、一応はしてあるつもりだ。いうまでもなく、主人の家のお墓には同居の祖父母と義父の名が刻まれていて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150103)、毎回訪れる度に、在りし日を思い浮かべてきたのである。
お墓石を建てて名を刻むということは、残された者にとって、負担どころか、極めて重要な記憶と情操の依り所になる。「おじいちゃんは木になったんだよ。ほら、花が咲いているよ」と言われてみたところで、名前が枝に浮かんでくるわけでもあるまいし、特別な遺伝子が発芽した樹木になるわけでもない。ブルーナのシリーズには(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080404)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080730)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080731)、大好きだったおじいちゃんとおばあちゃんが亡くなって悲しがっていたミッフィが、お墓参りに行くことでまた会えると喜んでいた絵本が確かあったはずだ。
しかし、樹木であれば公園に出かける感覚になり、いわゆる従来のお墓参りとは異なってくる。石に名が刻まれることで、生存基盤の記憶を繰り返し強化することになり、それを受け継ぐ自分にも、ささやかな生の記憶が残されるであろうという保証が、普段の暮らしに規律と責任と安心感を与え、確かなものにしていくのではなかったか。
この取り返しのつかない行為に対して、どのように責任を取るつもりなのだろうか。
父は、私の誕生した当時、都市銀行の外国企画課に所属していたと、アルバムの名刺にある。ロンドンとニューヨークに支店があったことから、戦争に負けた日本であっても、その20年後には、アングロサクソン主導の経済に参入すべく、日本人としての仕事が父にも可能になったのである。まるでハーマン・カーンの未来学さながらだ。(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120314)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131126)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140326)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141118)。もちろん、英語力は相当になければならない。私が父方の血を引いていると自他共にしばしば言われるのは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080422)、外国語に抵抗感が全くないところからも証明できようか。
そのような経歴を完全に無視して、ついでに私の存在も父との記憶も無視して、勝手に十歳も年下の弟達によって、当座流行の軽い扱いが決められてしまったのだ。それでいいと簡単に考えているところに、問題の深刻さや根深さがあらわれている。
孫達は、学校でどのようにするつもりなのだろうか。盆暮れには、お墓石に水をかけてお花や榊を供える行為そのものに意味があるのに、「おじいちゃんは樹木葬!」と平気で言う子どもに育てるつもりなのだろうか?それはあまりにも、身勝手過ぎないだろうか。しかも、こちらには思い出の共有どころか、「悪いようにはしない」と父が言ってくれていたはずの遺産も何もなく、孫資金として、ほぼ全額あちらに行っていると想像される。
とすれば、伝統を無視して、自分達の狭い価値観からはみ出した者を勝手に排除し、この世に生存した証を抹消し、自分達の存在意義もみすみす放棄する、極めて愚かな根無し草行為だとしか言えない。
安倍総理に謹んでお願い申し上げたい。経済復興のための施策として、「子孫に美田を残さず」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150522)を強調していただけないだろうか。子どもを産めばこっちのものとばかりに、我が物顔で大いばりする思慮の浅い非常識な女子どもを、是非とも厳しく再教育していただけないだろうか。