ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「取り扱い注意マーク」その後

昨日書き流した雑感メモの要約(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131119)。

・結局は、人類学調査の心得として言われるところの「ラポール形成」に失敗しているということだ。
・相手の持つ相違(見解・文化背景など)を自分に対する「敵意」だと感じるのは、己の内面に「憤懣」を抱えていることの反映。
・誰もが限界の中で生きている。相互に赦し、許し合うことが大切だ。

など。それにしても日本語で考えると次元が低過ぎるように思われる。
若い頃、東海岸に計4年間、留学と仕事で滞在していた主人に言わせると、「アメリカって勉強に行くにはいいけど、いつまでも住みたいとは思わないなぁ」。
移民社会というのは、民族内部と民族間関係が複雑で緊張感がある上に生存競争が激しいので、表向きは人種差別的な反応を見せないように教育されていても、違いがどうしても出てしまうらしい。その点、日本は自分の生まれた国なので楽だという。
また、母語ではない以上、どう頑張ってみても言葉も不自由で思考に制約が出てしまうのに、それでも移住して留まろうとする理由は、そこに余程の利益や見返りがあるか、相当の迫害や住み心地の悪さが祖国にあったかだ。相対的に比較した上での決断であるとすれば、日本の方が生活基盤も確保され、言葉に不自由はなく、治安もよく、先祖代々の土地であり、世界最高水準ではないにしても何とか満足して暮らせるならば、なぜわざわざ移住する必要性があろうか。それを殊更に誇示されてみたところで、所与条件がそもそも異なるのだから、意味はない。健全な愛国心を持っているならば、かえって不愉快だろう。

つまるところ、私には相当の深い誇りと愛国心が備わっているということだ。日本人であるということ、日本国に生まれ育ったことのありがたみと幸い。だからこそ、いかなる外国に対しても、そこに住む人々に深い敬意を払うのは当然だと思うのだ。但し、黙って言いなりになるのが「敬意」なのではないから、問題点があれば客観的証拠を添えて論拠立てて指摘するのも、一つではある。

[後注]
後でよく考えてみると、思想やイデオロギーの問題というよりも、そもそも対人関係における認識にズレがあるのではないか、と気づいた。
自分から持ち出した依頼事が思うようにいかないと、いつの間にか、こちらの対応のまずさのせいに話題がすり替わってしまっている(注:話題のすり替え事例は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130927))。例えば、「自分の書いたものが日本語になるのを見たい」「日本で著書を出版したい」「日本語のページを作れ」という願望を出す(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120401)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120607)。しかし、それならば日本社会や文化に対する一定の尊重や理解がなければならないことは、前提条件という以上に常識である。それによって印税を得ようとするのだから。しかも、面識のない他人を動かすことになるのだから。それに、日本語で読むなら、まずは日本がどのように描かれているかを見ようとするのが常だろう。しかし、そのことを指摘すると「どうして自分の好意がわからないのか」「それは自分に対する敵愾心だ」「せっかく日本人に中東やイスラームの分析を教えてあげようと思ったのに」「自分は日本人のために書いているのではない」と反論されてしまう。まるでかみ合わない論法。簡潔ながらもポイントを列挙して説明をしようとすれば、「ストレス」だから「話はなかったことにしよう」と一方的に押しまくられてしまう。
この調子では周囲もやり切れないだろうし、いくら過去の経歴が輝かしく、今でもそれを何度も引用して、ライバルの先輩や同僚を逐一けなしながら自分を権威づけようとしても(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130828)、全く説得力がないどころか、皆が引いてしまう。米国代表としての来日ではないのに、イスラエルアメリカを楯に、自分に対する「敵意」を日本人から感じたという日本で、どうして日本語出版を希望するのか、そもそも辻褄が合わない。日本や日本人に対する嫌な思い出があるならば、何も頑張って無理矢理に日本語訳を出す必要性はないのだ。しかも、ムスリムや中東人との比較に、我々日本人が「模範例」として引き合いに出される筋合いはないのだ。ムスリムは全般的に日本人には好意的であるのだから、余計なお世話といえばお世話。こちらだって、別に日本語でなければ理解できないというものでもあるまい。英語で充分理解できるから、何年も前からひどい非難が日本でもあったのだ。
そして、こちらに需要がないのに、なぜ出版を依頼してくるのか?普通は、こちらが必要とし、売れる見込みがあるか紙媒体で保存を希望したいから、印刷して出版するのだ。順序が逆というのか、そもそも矛盾の塊ではないか?「自分にはこれだけの翻訳がありますって見せたいんじゃないか?」「ま、適当にやればいいよ」とは主人が最初から言っていたこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120729)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121026)。しかし、それならば「世界中で幅広く読まれています」というのも、自作自演というものでは?
何だかこの一年八ヶ月、当事者感覚で熱中し過ぎてしまったことが判明し、どっと疲れて首の辺りが痛くなってきました。
と書いていたら、新たな訳文依頼が届きました。もう、全くこっちの気持ちなんか、これっぽちも考えていないんだから!