ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

至高からの恵みと采配

気づいたら、如月も一週間過ぎてしまいました。
おとといは、1月9日の健康診断の結果(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130109)、要精密検査とのことで、近所の病院へ再検査に。「健康ノート」なるものを作って十数冊になりますが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070703)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070720)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070906)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090211)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090612)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090226)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091130)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100720)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101025)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110107)、そこに健康診断の書類一式やかかったお医者さんの記録などすべてを貼り付け、記入してあり、それに保険証(昨年からカード式に)とお財布を持参すれば、いつでもどこでも心配ないという方式にしています。
精密検査といっても、実は昨年の1月末にも、同じ部位の同じ検査結果で、同じ病院で再検していただいたのでした。今ではデータがすべてコンピュータに入力されているので、私自身も、脹れ上がったノート一式をめくれば、同じように確認ができるというわけです。一応は診断結果を複写しておくからと言われた窓口でも「貴重なノートをありがとうございました」と返却時に言われましたし、ドクターの診察時にも、「他の結果を見せてください」とまで言われ、「じゃ、問題ないですね」と。
我ながら、記憶の曖昧さや負担を避けるためにも、この方式は正解だったと思います。几帳面だとよく言われますが、悪くはない習慣だと思います。(時には、「この人、バッカじゃない?いちいちノートに何でもメモして...!」と笑う人もいますが、書くことは好きだし、事実の記録の重要性を認識しているので、あまり気にしていません。)
というわけで再検ですが、昨年も「異常なし」でしたので、同じ検査をしても、ということになり、何とMRIに。15年ぐらい前のまだ初々しかった頃、テニスで腰をひねったことがきっかけで椎間板ヘルニアになってしまい、その診断時に初体験したMRI。その時も同じ病院でしたが、このような医療機械も変化しているようで、当時の大工仕事のような金属音とは違い、今回はブザーのような電気音が断続的に聞こえる、といった風でした。(耳栓まで貸していただきました。)それに、骨を調べるのとは違って、組織部だからとのことで、生まれて初めて点滴で生理的食塩水を注入され、途中から造影剤を投与されるという、思いがけない展開になりました。
ドクターの診察では、「多分、良性でしょう。コラーゲンがたまっているのでは?」とのことですので、特に心配はしていませんが、数年前の職場の知り合いの奥様が西洋医学を断固拒絶するタイプで、そのために私より数歳年上でしたが、亡くなってしまった経緯があります。今でも彼女の姿が目に焼き付いて離れないほど、さまざまな意味で非常に強烈な印象を与える人でしたが、私としては、医学や医療や健康診断制度のために、どれほど多くの人々が犠牲を払って労してくださったことかを思い、拒絶するのではなく、ありがたく恩恵に預かりたく願っている次第です。
ところで、その病院で2時間以上かかった合間の待ち時間に、夢中になってパイプス訳文のチェックをしていたのですが、驚くべきことが発生しました。
その訳文は、デンマークムスリム移民の問題を、具体例を幾つか挙げて批判的に論じた2002年夏の論考文。デンマークの(元左翼だったという)歴史家で、言論の自由のために活動されている男性との共同執筆でした。なぜその古い論考文を訳す気になったかと言えば、アメリカとイスラエルユダヤ人問題と中東ムスリム諸国の情勢に焦点を狭く絞らず、せっかく多様なテーマで多作されてきたパイプス先生の力量と考察の幅を日本語圏にお知らせするためにも、デンマークの事例も含めよう、という意図からでした。特に、デンマーク預言者ムハンマド戯画事件の記憶がまだ鮮明でもあり、その応用類例が世界各地で広まっている現状を考えると(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100216)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120917)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120922)、もう一例ぐらい加えたいな、と前から考えていました。
デンマークと言えば、私にとってすぐに思い浮かぶのが、子ども時代のアンデルセン童話、そして、マラヤ植民地時代のデンマークキリスト教宣教師、それから、デンマークに日本も見習うべしという内村鑑三論考(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090831)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090901)ですが、上記の事件のみが大きく世界で大手を振ってしまった感もあり、残念に思っていました。
以前から繰り返し書いているように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120424)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120516)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120525)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120628)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130122)、英語で内容を取るだけの読みならば数分で済むことが、自分の言葉に訳出するとなると、固有名詞の表記法やら(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130125)、一つ一つ気になる事例背景を調べたりする必要があり、A4で6ページ程度の長さならば、下訳は一日か二日でできるものの、細かな確認作業には結構手間取ります。で、今回も、電車の待ち時間まで使って一生懸命やっていたのですが、何と...。
その共同執筆者のデンマーク人が、当日の2月5日、何者かに狙い撃ちされそうになったという事件が発生していたのでした。時差もありますし、私がインターネットで調べた夜の時点では、ちょうど1時間前の報道とのことで、デンマーク語のニュースのみでした。仕方なく、あまり性能のよくない翻訳機械にかけて英語と日本語で読んでみましたが、自宅で配達人らしき若い男にドアベルで呼び出されたので、郵便物かと思い、玄関まで出たところが、いきなり発砲されたということのようです。どうやら銃が外れたようで、命に別状はなかったものの、一歩間違えれば確実にやられていただろう、という...。
偶然にしてはできすぎたタイミングで、恐ろしいと思いました。そこで早速、その場でダニエル・パイプス先生にメールを打ちました。

最新の訳文の見直しをしていた今日、純粋な偶然だったのですが、共同執筆者のラース・ヘデゴー氏が、何者かに暗殺目的で狙われたとのデンマーク語のニュースを知り、大変衝撃を受けました。絶対に、こんなことは文明社会であってはなりません。どうか先生ご自身もお気をつけください」。

既に夜中になっていましたが、その約40分後にお返事が届きました。最後の二文のみ引用された上で、

二度、同意した

と。
相変わらずあっさりしていますが、ちょうど先生も最新原稿の執筆間際でお忙しかったのでしょう。その後、心配しながら私の方も訳文の最終チェックであれこれ作業をし、翌日2月6日付で送信しました。「昨日言及した新訳ですが」と書き添えて...。
すると、一仕事済んだためか、あるいは、デンマーク事件の情報がある程度入って来たからなのか、今度は追加コメントがありました。

ありがとう。それに、昨日発生したことを考えると、全く並外れたタイミングだね」。

欧州―米国(東海岸)―日本の間で時差があるので、「昨日」とは、私に合わせて書いてくださっているのです。
原稿を共同執筆されたのみならず、映像によれば、数年前にデンマークでパイプス先生がご講演された時も、一緒に会場でお話された方でしたから、私にとってはこの時機の一致にはびっくり仰天としか言いようがありませんでした。
振り返ってみると、一年ほど前に突然、パイプス先生から訳業の依頼があった時(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120514)、(え!私みたいな無名の日本女性に訳させたら、先生のお名前に傷が入るんじゃないのかしら?もっと著名で権力のある肩書きの人に頼んだ方が、何かと有利なのではないでしょうか?)と戸惑っていました(健康ノート程度で「バッカじゃないの?」と笑われている私なので...)。それに、主人や弟も研究目的でアメリカの一流大学のお世話になってきたとはいえ、今時、何ら珍しくもない話ですし、私はと言えば、特に大した学歴もない、単なる主婦。英語だって、英検一級だとか国連英検A級だとか合格はしていても、所詮、日本レベル。何ら専門的に訓練されていないのだから、ご迷惑なのでは...。
ただ、取りかかってみると、あれほど批判されていた方なのに、マレーシア問題で長年悩まされてきた者にとっては、何とも常識的で正直で勇気ある方ではないかと、そのギャップに驚かされましたし、話題に共鳴する共通項が多くて、とても魅力的なのです。仕事への取り組み方も、何かと困難な中にあっても常に強気で前向きで積極的で、こちらまで非常に勇気づけられる点、遠隔ながらもありがたい好機と感謝している次第です。
そればかりではく、今回のように、こちらがそれと知らずに取り組んでいた作業の当事者が、まさに同日、国際ニュースになっていたという...(でも、残念ながら、これを書いている時点では、日本の主流メディアでは特に報じられているわけではなさそうです。これをガラパゴス現象の一つと見るべきか、単純に意図的に無視されていると考えるべきなのか...)。
議論で戦うには、宗教アイデンティティが必要だ」と述べられていることから推察されるように、パイプス先生がどこまでユダヤ教徒として律法に忠実でいらっしゃるかは不明ですが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120916)、基本的には、やはり現代的かつ知的なユダヤ教徒だと感じています(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120612)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121225)。お父様のリチャード先生も(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130203)、「ドイツ支配のポーランドの地獄から救われて生き延びたのだから、自分は単なるサバイバルではない、崇高な目的を神から与えられたと感じたし、この感情が去ったことはない」と述懐されているように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20130104)、親子揃って、高次の理念を目指していらっしゃることは確かでしょう。もし、その恵みのおこぼれが、極東の小さな無名の私にまで降り注いでいるとするならば、ただただ感謝すべきことです。
デンマークムスリム移民の問題に関しては、私は次のように申し添えました。

ムスリム移民に関する西洋の政策は、私達にとっても重要です。なぜかと言うに、ひとたび西洋諸国が、受け入れ国で統合しようとしない大量の不法移民の流入を緩めるとするならば、日本は、‘人権’や‘人道援助’の名の下に、そのような先例を‘モデル’として従うだろうからです。事実、ある日本の政治家が、公に最近言いました。日本は近い将来、社会を維持するために約1000万人の外国移民を必要とするだろう、と。とんでもないことですが、本当なんです!

これは、決してムスリム差別ではありません。移住した先で、デンマーク人を追放しようとしたり、ユダヤ系市民を殺害せよという脅迫を出したりするムスリムの事例があるからなのです。もし、差別はいけないとするならば、ムスリムにも、「デンマーク人やユダヤ系を差別してはいけません」と同等に非難されなければならないはずですが、どうも多文化主義政策の場合、「主義」「政策」と呼称されているだけあって、人工的な臭いがついて回り、意図的に社会構造を変革しようとする試みに他なりません。当然のことながら、それに対する批判や反対意見が出てしかるべきだと思っていましたが、日本国内では、大学でもブログ上でも、どうやら「欧州の偏狭さや右傾化が問題だ」という論調が前面に出ていたように記憶しています。
果たしてそうでしょうか?
最後に、時々、力強い援軍としてこのブログにご登場願っている廣淵升彦氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111001)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111009)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121007)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121122)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130105)の部分引用を。

http://hirobuchi.com/archives/2013/02/post_586.html#more


先日の講演で中東と日中関係を中心に今年の見通しを話しました。その際に、「日本人は『月の砂漠』というあまりにも美しい歌の影響を受けすぎて、中東の現実が見えなくなっているのではないか?」と言いました。月の砂漠を旅のラクダが行きます。金と銀の鞍を置いたラクダに乗って、月光に照らされた砂の上を、王子さまとお姫さまが通って行きます。この光景は、まことに美しくロマンティックです。しかし、いくら従者がたくさんついているとはいえ、男女の戒律がきわめて厳しいアラブやペルシャ(イラン)で、未婚の王子と姫がラクダに乗って旅をするということが現実にありうるのかどうか?(中略) 


私たちは、あまりにも他国を日本の基準で見過ぎています。(中略)


しかし、これが苛酷なアラブの現実なのだ、と思い知らされ、「日本流の価値観がどこでも通用すると思うのは間違いだ」という痛切な思いを噛みしめた人も多かったと思います。(中略)


大人はそろそろ「現実」に目覚めて世界を見る習慣をつけたいものです。(中略)

まさしくおっしゃる通り。私自身も、「日本の基準で見過ぎている」「自分の基準で相手を推し量ろうとしている」傾向には、随分、昔から気になっていました。