ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

国生みの淡路島へ

おととい、昨日と一泊二日で淡路島へ温泉旅行。
若い頃は海外に眼が向いていたものの、あちらこちら国内旅行をしてみると、今では遙かに小さな発見がたくさんあって、土地の違いのおもしろさに気づくようになり、歳を取るのも悪くはないなぁという感じがします。
「淡路島」と言えば、昨年3月下旬頃、知り合いの先生の研究室へうかがった際、「ちょっと待っててね。淡路島へ行ってきたから、お土産を事務の人に渡してくる」と言われ、(そうか、淡路島か...)とボンヤリ感慨にふけってしまったことを思い出します。二つの連想のうち、一つには1995年の阪神・淡路大震災のことがあったからですが、今回、私達が行ったのは、島の中央半分から南の方。狭い土地のように見えても、うまく棚田を作り、タマネギや牛乳や水仙およびワカメなどの海産物で、充分に島で生きていけそうな恵まれた気候と、長い伝統に裏付けられた人々の誇りのようなものに印象づけられました。
「狭い」で、も一つ連想するのはシンガポール。淡路島と同じぐらいの国土だとしばしば言われますが、私に言わせれば、シンガポールのような高層ビルの連立した人工的な都市国家と淡路島と比較するのは、淡路島の人々に対して失礼だ、と。逆に言えば、シンガポールの人々に対しても別の意味で失礼だ、と。歴史や土地柄や政体条件や風土など、所詮、最初から比べようのないものを比べている気がするからです。
私にとっての淡路島は、何はともあれ古事記。(いくら何でも国文学科出身だけあって、連想が正統的なんです!?)もちろん、国生みの話です。上記の先生も、古代の聖書学のご専門なので、その関係で淡路島に行かれたのではないかと同時に直観したのですが、確認したわけではないので、この程度に。
私達は運に恵まれているらしく、今回の旅も、主人が何ヶ月も前から、いつの間にかたまったポイントを使って、自分で探して申し込んでくれたのですが、ホテルが、国内規模にしてはちょっとしたスイートルーム風に広くて、非常にくつろげました。つくりが今風というのか、6階までの吹き抜けで、サービスも丁重で親切。キッズ・ルームや小さなライブラリーまで設けてありました。(ただし、古本屋さんで買い集めて並べてある文庫本が、すぐに紛失してしまうそうで、返却しないお客さんがいるようです。)
温泉は一つが密室で、二つ目が窓の開いた露天風呂式。しかも、個人主義的な現代人に合わせて、シャワーの場に石造りの壁のような衝立があり、プライバシー確保も満点!サウナもありましたが、今回はパスしました。
昔は、温泉旅行と言えば、おじさんやおばさんの慰安旅行などの団体客を想像し、ホテルというより旅館の方がぴったりくるイメージで、宿泊しても、お湯の効用と持病の話で持ちきりなのでは、と勝手に思っていたのですが、何と言っても心配は杞憂に過ぎず、時代はあくまで我々の味方。すっかりおしゃれな旅として、二十代ぐらいの若い女性達も積極的に楽しんでいるようですし、病気の話よりは、おいしい食事や観光の話など皆さん前向きで明るく、何とも平和で結構なことです。
温泉ホテルでは、どの宿泊客さんもお湯に浸かってくつろいでいい気分に包まれているために、穏やかそうな満ち足りた表情をされています。かくいう我々も同類なのでしょうが、大変ありがたいことと感謝しています。
朝食はビュッフェ式ではなく、チェックイン時に時間とメニューを選択しておくと、和食か洋食かで座席テーブルまで運んでいただけます。これは、食べ物を粗末にしない点でも効果的ではないかと思われました。
二日目には、ホテルのマイクロバスと高速バスで福良港まで。そこでまずは足湯の初体験。ちょうど10分ぐらい浸かりましたが、ちょっとぬるぬるした感じの温泉湯に浸して足を温めるだけで、その後、何だか元気りんりんになってくるから不思議なものです。
その後、鳴門側から見たことのある渦潮を、咸臨丸に乗って淡路島側から見に行きました。残念ながら、ピーク時を外してしまいましたが、それでもかもめの生態状況を眺めたりして、楽しかったです。(かもめというのは、黒い眼がまん丸くて、存外にかわいい顔をしているのに、自分が餌を啄むために、まるで跳び箱を跳躍するかのごとく、仲間のかもめの頭を踏み台の足蹴にして飛んでいくのですね?生存競争丸出し。自分が食べる物は自分で取りに行くしかない、という厳しい現実。しかし、ふと考えてみると、かもめ並の人もいないわけではなさそうです...。我々は人間なのだから、少なくともかもめ以上にならなければ!)
その昔は、小舟が何度も巻き込まれて海底へ沈んでいったのだろうと思うと、科学的調査の重要性を改めて痛感...。大鳴門橋も、よく設計したものだと全く感嘆させられます。
その後は、500万株植えたという水仙園を見に行きました。これは、黒潮に乗って流れてきた水仙の球根を当時の漁師さん達が見つけて植えたというものだそうですが、なぜ突然、どこから水仙の球根が流れて来たのか、全く説明がないところがいささか不満。正直なところ、水仙そのものは野生で生えっぱなしの感あり。恐らく重要なのは、水仙にかこつけて丘を登って見える海の遠景なのでしょう。それでも、交通整理の係のおじさん達が何名もいて、なかなかの賑わいでした。水仙の香りは、昨年12月にお招きいただいて出席したヒンドゥ式結婚式(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121225)でふんだんに用いられていた、白い飾り花の香りに少し似ていました。
しばしば、日本人は内向きだとか島国根性だとか批判されてきましたが、私自身は、決してそう思っていません。少なくとも、日本史に無知な人々がそう言っているだけなのだろうと平然としています。というのは、鎖国時代でさえ、海外の最新情報や先進知識を吸収したくて、中国やオランダ経由で入手に努めていた人々が確かに存在したのですし、伊勢旅行の時にも書いたように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101209)、たとえ外国との交流に比較的欠けていた時期でさえ、村ごとに他の土地に出かけては、見聞録をきちんと記す習慣が日本にはあったからです(金森敦子伊勢詣と江戸の旅:道中日記に見る旅の値段文春新書2004年))。そのように、前向きで好奇心旺盛な日本人の精神は、今も大切に受け継がれていると信じたいです。
ともかく、観光旅行ができる基本条件には、治安が保たれ、一定の経済水準が確保されていること、何よりある程度は健康であることが前提です。人々が移動して非日常を楽しむことによって、その土地の経済が活性化し、雇用をつくり出し、相互に気分がリフレッシュされて、翌日から新たにがんばれるエネルギー補給となるならば、大変よろしいことではないでしょうか。
この淡路島の旅の間に、寺田寅彦天災と国防講談社学術文庫2011年)を読み終わりました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130102)。大正、昭和前半期の随筆が中心ですが、なかなかはっきりとユーモラスに書いてあって、楽しい読み物でした。
また、電車やバスの移動中には、上記の観光と社会の繁栄および安定の問題をぼんやり考えつつ、リチャード・パイプス先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130117)の「自由と私有財産」の講義を思い出していました(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=Richard+Pipes)。「自由なしに私有財産はあり得るが、私有財産なしに自由はあり得ない」と言い切っていらした辺り、今読んでいる白石仁章諜報の天才 杉原千畝新潮選書2011年)の記述と重複する点があると思いました。仮に杉原ビザで日本に渡れたとしても、旅費が充分でなかった場合、滞留するユダヤ人をどうするかで日本が困ったという下りには(pp.142,160,181)、やはりイタリア経由で米国に移住できたパイプス家(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121111)は幸せな事例であったと同時に、普段から情報収集をおさおさ怠らなかったのだろうとも人生の構えに対する根本秘訣に触れた気がしました。