ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

故オリアナ・ファラチについて(2)

故オリアナ・ファラチ(またの表記は「オリアーナ・ファラーチ」)さんの邦訳書が、1970年代から1980年頃までの3冊しかないと書きました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130122)。
残念なことにまだ邦訳は全く読んでいませんが、なぜその3冊が注目されて日本語圏に紹介されたかの理由は、日本社会の出版傾向を考えると、だいたい想像がつきます。フェミニスト運動の先端に立ち、ベトコンに共感する路線の文筆活動だったからです。当時流行の進歩的な思想に乗ずる格好いい女性ジャーナリストとして名を馳せたのでしょう。
私の世代では、昔、本を読むとなれば、これぐらいの勢いと骨のある読み応え充分なものであればこそ、というのが普通だったのですが、今では暇つぶしにもならないような、(これって小学3年生か4年生ぐらいの文章ではないか?)と思われるほどの驚くべき幼い内容の投書が、20代ぐらいの投稿者によって堂々と朝日新聞などに掲載される始末。これは、「弱い人々に目を注ぐ」「格差のない社会をつくる」思想を一方的に善とする教育や風潮がなせる業ではないでしょうか。
もちろん私自身、その思想に断固反対しているわけでは全くありません。ただ、何事もバランスが重要であり、そればかり強調されると、世の中の活力や前進がそがれてしまい、本来、特別な能力や優秀な才能を持つ人々が脇に押し寄せられてしまう可能性だってあります。
オリアナ・ファラチさんに話を戻しますと、その後も目覚ましい活躍をしていた彼女の華やかな国際インタビューや晩年近くのイスラーム批判などは、全くといっていいほど訳された形跡がありません。実は、『激怒と誇り』(拙訳)("The Rage and the Pride")は、イタリアでミリオンセラー、フランスでも相当の売れ行きだったそうですが、日本語になっていません。計13冊の著書を出版した彼女ですが、英語では11冊が翻訳されたそうです。
また、その後の彼女が全く日本で無名だったのはなく、一部のブロガーによって確かに言及されてはいるのですが、後期のイスラーム関連物について、瞥見の限りでは「彼女もおかしな方向に行ってしまった」というつぶやきもあれば、「西洋対イスラーム」図式に違和感を持つ見解もあれば、といったところのようです。
日本の立場で見れば、共感を呼びやすい新風として、初中期の作品は好意的に受け止められた彼女が、なぜ晩年に向かうにつれて、いわば「ムスリム偏見と闘う女」ではなく、イスラームと対決するようになったのか、という疑問に傾くのも、私としては理解できないわけではありません。しかし、そのような受け止め方ならば、彼女自身を一種の型にはめて見ていたことになりはしないか、と思うのです。つまり、社会の一般通念に逆らって新たな生き方に挑戦する「飛んでる女」みたいな...。(ちょうど、日本女性で言えば、桐島洋子さんやオノ・ヨーコさんのようなタイプでしょうか?)
しかし、私の見方は違います。ファシストに対するレジスタンス運動の家に生まれ育った彼女としては、あくまで誇り高いイタリア女性として、西欧文明の継承者かつ担い手であるという自意識が、彼女の人生を貫いていたのではないかと私は想像しています。だからこそ、西洋を脅かしかねないと思われた全体主義思考のイスラーム主義者や独裁者達には、正面切って対決型インタビューを試みた、という...。
実は、一週間前に遡りますが、晩年のオリアナ・ファラチさんと親交があり、亡くなった直後に弔辞としての追悼を読まれたダニエル・パイプス先生に直接お尋ねしてみました。

13冊の著作の中で、日本語版は、私の知る限り、3冊しかありません。彼女の仕事に関心のある人々の間で、他の著作は、イタリア語原書か英語ないしはフランス語訳で読まれてきたと信じたいのですが、なぜ邦訳がこれほどないのか、私には確かではありません」。

そのお返事。

僕の感触では、イタリア以外で彼女は忘れられかけているんだ。だから、新たな翻訳が今あるだろうってことを、僕は疑うね」。

もちろん、日本の社会状況や一般的な傾向を思いやっての言葉だとは承知の上ですが、あえて思い切って私は再度、書きました。

彼女の逝去後、たった6年で?それって、健忘症ではないですか?
いえ、私が先のメールで示唆したのは、日本の読者層が劇的に質において弱体化してきたようだということです。彼女のことを覚えている人々は実はここにもいますが、彼女のイスラームに関する強い意見のために、人々は日本語で彼女の後期作品を読むのを控えたように思われます。
『歴史との対話』が英語で2011年に再出版されたと思います。彼女の対決型アプローチに賛同するかどうかは脇へ置くとして、私が思うに、それは、私達が知るべき彼女の仕事の貴重な記録です。
公式サイトで、彼女をご紹介くださり、彼女の言葉を引用してくださってありがとうございました」。

ただし、ある日本語サイトによれば、彼女自身の手になる英訳『激怒と誇り』は、アメリカで4万部しか売れなかったとのことです。つまり、痛烈かつストレートなイスラーム批判は、イラク戦争やアフガン戦争などムスリム諸国への軍事介入をしたアメリカのような国では、かえって共感を呼びにくかったということでしょうか。
私の考えは、少し違います。確かに、以前のメールでパイプス先生が私に書かれたように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130122)、イスラームについて

僕の見解も彼女のとは違うよ

なのですが、所見が違うからと言って読まないというのではなく、イタリアでなぜミリオンセラーにもなったのか、という現代社会の諸相を理解するために、イタリア外の我々も読んでおく必要があるのではないか、ということです。
そして私の場合、特に英語が大好きというわけでも、大得意で自信満々というわけでもありませんが(どちらかと言えば、仕方がないので使用しているというのが本音と実感)、そうは言っても、邦訳がなければ自然と英語版を取り寄せて、そのまま直接読むことに何ら抵抗はありません。内容に興味があるからであって、その際、何語で書かれているかは問題ではないからです。ですが、すべての日本人が私のように抵抗なく(じゃ、英語で読みましょ)というわけでもないかと思われますので、やはり、邦訳の存在価値は充分にあると信じたいのです。
もちろん、イタリア語の原書ならばベスト、次善策でもフランス語訳やドイツ語訳でも、というところですが、日本でどのぐらいの人々が読まれたでしょうねぇ。
これに関連する話題として、先日読み終わった寺田寅彦天災と国防講談社学術文庫2011年)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130102)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130203)から、示唆的な文を抜き書きします。寺田寅彦氏は、1878年から1935年まで生きた、夏目漱石とも親交のあった理学博士ですが、何だか文章が楽しくておもしろいのです。昔の本を読むと、今では曖昧にしたり、わざわざわかりにくく表現したりするところをスパッと書き切っているので、笑わされます。

・良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならない(p.10)
・数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。(p.11)
・そうして食物も衣服も住居もめいめいが自身の努力によって獲得するのであるから、天災による損害は結局各個人めいめいの損害であって、その回復もまためいめいの仕事であり(p.14)
・旧村落は「自然淘汰」という時の試練に堪えた場所に「適者」として「生存」している(p.19)
・そういう弊の起こる原因はつまり責任の問い方が見当をちがえているためではないかと思う。(p.42)
・植物でも少しいじめないと花実をつけないものが多い(p.51)
・逆に災難をなくすればなくするほど人間の頭の働きは平均して鈍いほうに移って行く勘定である。それで、人間の頭脳の最高水準を次第に引き下げて、賢い人間やえらい人間をなくしてしまって、四海兄弟みんな凡庸な人間ばかりになったというユートピアを夢みる人たちには徹底的な災難防止が何よりの急務であろう。ただそれに対して一つの心配することは、最高水準を下げると同時に最低水準も下がるというのは自然の変異の方則であるから、このユートピアンの努力の結果はつまり人間を次第に猿人類の方向に導くということになるかもしれないということである。(pp.55-56)
・しかも結果において読者を欺すのが新聞のテクニックなのである。(pp.69-70)
・これで安心と思うときにすべての禍いの種が生まれるのである。(p.113)
・しかし数千年前からの言い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合もあるであろう。少なくもわが国民の民族魂といったようなものの由来を研究する資料としては、万葉集などよりもさらにより以上に記紀の神話が重要な地位を占めるものではないかという気がする。(p.135)

(引用終)
だから、選り好みせず、インターネットだけに頼らず、苦労を買ってでも、本を読む努力は必要だと思うのです。
今、‘Oriana Fallaci’で、図書館検索をしてみました。該当件数としては31件で表示されました(別の大学図書館検索では33件の表示)。案の定、上記に書いたように、邦訳の3冊分は、それぞれ、17大学、46大学、20大学の図書館に入っています(余談:私の母校には必ずあります!)。ところが、イタリア語も含めた英語版、独語版、仏語版、西語版は、2図書館ずつという3例を除き、いずれも大半が1冊ずつ1大学図書館にしかないのです。目立つのは、上智大学京都産業大学でしょうか。想像するに、誰か教員の中に関心のある人がいらして、こっそりと図書館に入れてくださったのではないか、と。
これはいくら何でも偏っているのではないでしょうか?確かに、経済状況から、翻訳出版しても採算が取れないということなのかもしれませんが、少なくとも個人レベルでは、世界情勢にもう少し敏感になり、もっと貪欲に、異なる見解であったとしても手応えのある本をしっかりと読みたいものだと思います。
そうでなければ、寺田寅彦氏の言うように、「四海兄弟みんな凡庸」になり、最高水準を下げるのみならず最低水準まで下げ、猿人類に向かって徐々に進化するという、ユートピア世界が待っていることになります!