ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

人と人とはつながっている

今日付の『朝日新聞』朝刊(大阪本社発行)の「編集部が選ぶ注目の論考」と題するコラムに、短くとも目が離せなくなった一文がありました。
朝日に限らず、ここ数年の間に、ますます活字が大きくなって、内容に一段見劣りが目立つようになった新聞全般。そうはいっても、インターネットだけでは、どうしても自分の好みに傾くことがやむを得ませんし、本なら読み終わるのに数日はかかるため、他者の目を通した編集による社会動向の把握だけは、欠かせない習慣ではあります。そして、ポイントは、紙面の下の方にある短い小さな一文。ここに目を留めるようにすると、案外に、ヒントが隠されていることに気づく場合があります。
前置きはこのぐらいにして、その一文とは....。

板垣雄三「アラブ革命の波紋」(DAYS JAPAN 1月号)は米国とイスラエルの動向から「暗澹たる2012年」を予測。

板垣雄三先生は、数年前の学術上の会合で、もちろん席は離れていましたが同席の機会もありましたし、過去にこの「ユーリの部屋」ブログでも、お名前を引用させていただいたことがあります(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091110)。
池内恵氏が、いつの日文研の公開学術講演会だったか、「偉い先生を批判すると、大変なことになる」と本音を漏らし、思わず会場から笑いを誘っていたことを思い出しますが、私の22年間の紆余曲折とも重ね合わせて、ここで再度、2008年1月7日付「ユーリの部屋」から部分引用することをお許しください。

問題は、理論的に(はあ、イスラ−ムとはそういう考え方をする思想なのですか)と理解できたとしても、現実的にはイスラーム圏内で非ムスリムが困惑させられている事態に対して、大学のイスラーム研究者がなんら回答を提示していないという現実なのです。それならば、イスラーム復興が完了ないしは一定の衰退期を見るまでは、永遠に続く問題と言えましょう。
懸念されるべきは、これに対処し続けることで、当該地域の非ムスリムのエネルギーと知性が徐々に麻痺していき、創造的な目的に対してさえ枯渇してしまうという危険性です。

もっとも、最近では、少なくとも形式上、あるいは建前上は、「キリスト教徒も要職に就ける」とか、「イスラーム色を極力排除した形」などとムスリム圏では語られるようにはなりました。ただ、本音のところ、実際のところはどうなのでしょうか。そんなにここ数年で、急速に変われるものなのでしょうか。本当に実践しているとするならば、なぜ、遥かにアジア的混沌ないしは曖昧さに包みこまれながら、人口の6割がイスラームを実践しているマレーシアで、これほど30年以上も同じ問題がしつこく生起するのでしょうか。

上記の“DAYS JAPAN"という雑誌のことは、私は知りませんでした。公式ウエブ情報によれば、世田谷区にある、2003年12月設立の出版社で、「9.11事件後のメディア不信」が契機となっている会社のようです。賛同人の一覧表を見ると、数名の故人を含め、だいたいの思想的傾向は明らかです。そして、その中に、板垣雄三氏も入っています。
雑誌を読んでいないのにこんな感想を書く資格はないのですが、少なくとも朝日新聞の記者によるまとめで気になるのは、一言で「米国やイスラエル」と言っても、内部でさまざまな考えや立場の人々がいるのは当然のことで、その調整だけでも複雑で大変なのに、それを外部からあっさり言い切っていることです。くどいようですが、お名前を再度引用させていただくと、かのダニエル・パイプス氏だって、2004年のバークレー校での対談映像で(http://www.youtube.com/watch?v=Q7JqbFcQf6A&feature=related)、端正な姿勢を崩さないながらもはっきりと「誰だっていつも正しいとは限らない。イスラエルが常に正しいと言っているのではない」という意味のことをおっしゃり、ホスト役のハリー・クライスラー先生が、思わず(よしよし、それでいいんですよ)と言わんばかりに相好を崩していた表情が忘れられません。
確かに、2011年12月20日エスポジト教授の講演会の後も、帰り道に「先輩」が「先行きの見通しは明るくない」と私におっしゃいました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111221)。その時、思わず「それは、イスラエルが消滅するかもしれないということですか」とストレートに尋ねてしまったのですが、そこは外交官らしく、「いや、中東和平」と話を逸らされたことだけは覚えています。
国際問題の専門ではないので、これ以上は控えますが、少なくとも専門家や外交官や政治家とは全く別の次元で、一般教養層も含めた草の根レベルの文化交流という事業は、是非とも、政治的外交的な路線とは区分けして、継続されなければならないと痛感した次第です。特に、日本の専門家や官僚との会話で「イスラエルに対する敵意の壁」を感じたというパイプス氏の短い一言は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120123)、私にとっては、到底忘れることのできない、重たいしこりです。
その意味で、日本とイスラエルの「外交関係樹立60周年」である今年2012年は、是非とも、文化交流事業が成功してほしいと願うものです。これは、イデオロギーの問題ではなく、単に私がマレーシアと関わるようになったきっかけが、国際交流基金(The Japan Foundation)だったこととも関連します(http://www.jpf.go.jp/e/about/outline/area/jf_is_2012.html)。
そして、以前も書いたように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111217)、「外交は外交、研究は研究、学問は学問」と区分けしておかなければ、人間関係上の利害も絡んで、何やら複雑怪奇になってしまいます。
最近では、大学も「グローバル・スタディーズ」などと、(俗っぽい表現を借用するならば)看板を掲げていて、学際領域が当然のようになっています。また、身近に知る研究会なども、気がつくと、いつの間にか、各分野毎の研究領域が見事に連関し、一般社会人さえ巻き込んで、小さくとも堅実な専門店ではなく、大雑把なメガ・モール的総合商社のような体裁を整えつつあるように思われます。問題は、そのように各部署が、従来の狭い枠組みを超えて連携するということの利点ばかりが前面に出されているように感じられることです。
もちろん、私の学生時代のように、狭い領域だけを深く掘り下げ、あるいは、その狭さに閉じ籠ることで、身を守るような潔癖さでは、通用しなくなった時代です。当然、他の諸要因も考慮されるべきでしょう。しかし、それによって、例えば聖書もまともに最初から最後まで通読さえしたことのないような人が、マレーシアの聖書翻訳の小史などについても、極めて小さな事例の現代的意味を把握することに失敗しているのに、職位職階から、平気でずれた論評を下すような忙しない傾向です。
これは、私のような者にさえ殊更目をかけてくださった、ご年配の名誉教授の先生方が、「学問の破壊だ」と懸念されていたことと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080325)、根底では連動しているのではないかと考えられます。
最後に、再びロバート・ハント先生の言葉を借りるならば(http://experts.patheos.com/expert/roberthunt/2011/06/25/daniel-pipes-an-islamophobe-really-really/)、ダニエル・パイプス氏の‘unbending support of Israel’に対して、僭越ながら私からも一言。やはり、パイプス氏が学究肌の厳しい理論家であるのに対して、ハント先生は、教育者家系の出だけあって、しかも、サラワク福州華人の奥様と共に、マレーシアとシンガポールの混沌とした民族宗教社会の中で30代の数年間を過ごされただけあって、思いやりの深い南部人のよい面が出ていると思います。

Pipes has a relatively consistent set of fears’

これは、深層心理面でのパイプス氏の内的葛藤を端的に表現した、見事な一言だと思うのです。
断片的とはいえ、ここ二週間ほど、下調べ的に集中して見た幾つかのYou Tubeの映像を見て、パイプス氏がいかに、比較的ストレートに感情の出やすいタイプかが感じられました(注:ネクタイは同じようなものばかりなのに!)。怒りで憤然として出てくることもあれば、ちらっと疲れと苦悩を滲ませる映像もあり、不安げな表情でやっと自分の確信を語ることもあれば、いらいらと携帯をいじっていることもある。文章を少し覗いても、さすがは中庸を美徳とする英国人と違って、真っ直ぐな人だな、と感嘆します。「もうこんなことは忘れたいのだけど」と冒頭で添えつつ、自分の大学講演がボイコットに出会って困惑した様子を、こまごまと綴ったりもしているのです。
そのような、ある特定の状況や一つの傾向に対して、ハント先生はこのような描写をしています。

‘all-American tendency to be more interested in unconditional approval and ideological purity than listening to and fostering different points of view.’

でも、それだからこそ、ハント先生の末尾の文が俄然、生彩と輝きを伴ってこちらの胸を打つのでしょうか。

‘In the end the best friend of any people or religion is a friend of the truth, and that may include Daniel Pipes: even when he’s wrong.’

(部分引用終)