ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

保守性の源流についての省察

自分で書いた英語と日本語表現は、いずれにしても、相手によりよく伝わるように工夫しているつもりですが、本音と建前を使い分けることは、文化規範としては、少なくとも行使していないと思っています。いずれはバレてしまうことですし、それよりも、自分は日本人なのだから、このように考えると筋を通した方が、相手にも説得力があるのではないでしょうか。
これまでめったにしたことがなかったのですが、自分の書いた日本語ブログを翻訳にかけてみたところ、すごく変な文章になっていたり、意味がまるで逆になっている文が出てきたりもしましたが、ある程度、続けて読むならば、だいたい単語を拾うことで内容は取れるかと思います。自分でもこんなことを表現していたんだな、と、変テコリンな翻訳英語を読みながら、かえって「客観的」に自分の考えを見直すことができ、おもしろく思っています。
そして、再度認識させられたのが、「保守性」の意味です。何度も勝手にお名前を引用するようで恐縮ですが、ダニエル・パイプス氏が、政治的にも言論上も、たとえ「強硬」ではあれ、お若い頃から常に一貫した態度を取り続けることで、遠く離れた私にも一種の信頼感ないしは安定感を与えているという事実です。
アメリカの国益中心に考えている」との非難もどこかで読みましたが、それこそ筋違いというもので、もし、米国が日本の方へすり寄ってきたら、「内部干渉だ」ということになりますし、フットワークも軽々しく、八方美人的な言動に一貫性がなかったとしたら、これまたアイデンティティにいかがわしさを感じさせ、残るのは不信感だけ、となるでしょう。まずは己および自国のルーツと歴史について、しっかりした認識に立ち、その上で諸外国に対する理解を深めつつ、協力できる点は協力しながら、相互利益を求めていくのが筋ではないでしょうか。
だから、もしも、パイプス氏がはっきりした対応を取っていることに苛立っている日本の中東研究者がいるとしたら、それは学問的立脚点や研究動機に対して、己の疾しさを突かれているという意味なのかもしれません。(例えば、どうしても大学に残りたいとか、世の潮流に遅れたくはないとか、新たな立場を打ち立てることで、名を上げたいとか。)
パイプス氏は、あるインタビューで「(これほどイスラームに造詣が深いのだから)もし、ムスリムから改宗しないかと持ちかけられたら、どうしますか」という質問に対して、「私は自分の宗教(ユダヤ教)に忠実でありたい」と、よどみなく答えられていました。このシンプルな模範解答こそが、非ユダヤ教徒の私にも、なぜか深いところで共鳴するのです。
一ヶ月ぐらい前だったか、うちの主人が突然、おもしろいことを言いました。「あのさ、結婚してから、毎日のようにマレーシアとイスラーム(とキリスト教)の話ばかり聞かされているけど、僕はマレーシアと結婚したんじゃないんだよ。あれっと思ったことは、僕、ちゃんと言ってあげるからさ。それに、対話だとか相互理解だとか、クリスチャンなのにムスリムの味方している先生って、本音ではイスラーム嫌いなのかもしれないよ。それより、まっすぐ自分を語っている人の方が、信頼できるし、僕は好きだな」。
アイデンティティの上で「根なし草」ほど、信頼に欠ける人はいない、としばしば言われますが、差別だとか人権侵害だとか非難されようとも、ある程度は的を得ているのではないでしょうか。(例えば、ダニエル・パイプス氏が「オバマ大統領はムスリムだった」と公言し、証拠があるとまで語っていた映像を数日前に見ましたが、確かに、ムスリム法を厳格に適用するならば、その理屈が成り立ちます。だからこそ、私も過去にそれらしきことを漂わせる文を書いたのです(参照:2008年11月5日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081105))。マレーシアでも、マルティリンガルであちこち飛び回っているような人は、縦横に多くの人と付き合って世渡り上手にも見えますが、そのようなタイプほど、知識や認識が浅く、話していてつまらないことはなかったように感じました。同様に、フェイスブックは便利ですが、友人リストが3桁もあるような人は、忙し過ぎることもあってか、案外に深い付き合いができないようにも思うのです。それより、人数が2桁で少ない人の方が、丁寧な対応をしてくださるように思います。
多面的な側面の一部と、自分の一部の交接する面だけで交流するのが、この頃のはやりだとか聞きますが(参照:2010年12月21日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101221)。発言元の「平野啓一郎氏」については、(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071104)を参照のこと)、本来のホーリスティックで総体的な存在である人間を、機械のように細分化して、都合のいい部分だけで付き合うなんて、不自然ではないでしょうか。もっとも、プライヴァシーに踏み込むことは避けるべきですが、ある人を、たとえその人が有名で活発な言論活動に従事しているからといって、何でもラベリングで叩きのめすなんて、失礼の最たるものだと思うのです。