ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

こういう議論が好き

昨日読んで、思わず大笑いしてしまった議論。私、実を言うと、こういう議論が大好きなんです。真理探究のための専門家同士の遠慮会釈なしの対等な批判精神。権威や社会的地位などはさておいて、盲目的なハッタリやお追従はなしね、というところ。
ただし、イスラーム圏では「危険を伴う」と言われるので、自分のテーマに関しては抑えざるを得ず、そこが最もつらいところです。本来の私自身が窒息しそうで....。
ちなみに、荒井献先生は、9月中旬の学会で、なんと私の発表を黙って聴いてくださいました。専門外なのでコメントなし、ということでしょうか。奥さまがご闘病中とのことで、昨年はご欠席でしたが、追悼集を会員にお配りする、とのご挨拶がありました。また、「(ドイツの学者)タイセンが来ていたので」欠席したとも述べられました。
荒井先生って、書く文章は強くて鋭いのに、お話の仕方は温厚なのですね。このギャップにも驚かされました。それに、批判精神そのものを否定されることはなく、「私のいない間に、私に対する批判があったそうですが....」とあっさりおっしゃった点、明記すべきでしょう。懇親会場でのことでしたが、皆、何となく笑っていました。こういう、開かれて自由に切磋琢磨する雰囲気こそが大事なのだと思っています。
「西洋の学者の物まねで、独創性はありません」のくだりは、今夏、聖餐についてドイツ語や英語の文献を調べていたら、同じような話が出てきたので、(なぁんだ、大したことないなぁ)と僭越にも感じてしまったことからも裏付けられます(参照:2011年8月8日付「ユーリの部屋」)。
市川裕先生は、これまた穏やかで腰の低い先生で、これまでにも時々、会合等でお目にかかり、直接、何度かお声をかけてくださいました。ある時には、京都の地下鉄の駅でもおしゃべりを。それに流麗な達筆。もちろん、ご著書は拝読しております。例えば、『ユダヤ教の精神構造東大出版会(2004年)や『ユダヤ人と国民国家ー「政教分離」を再考する岩波書店(2008年)など(参照:2008年10月6日付「ユーリの部屋」)。少し難しいけれども、とってもおもしろかった!
要は、学問の世界における世代交代という含みでしょうか。学者の悪口ということではなく...。では、どうぞ。

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「イエスヘブライ語を話した」に関連して 


ある読者の方から、主の祈りの「みこころが天になる如く、地にもならせ給え」の「みこころ」はヘブライ語では何というか、と質問された。
 こころ、つまり意思はラツォンで、「みこころ」つまり、あなたの意思は「レツォンハー」である−とお答えした。
 さらに、質問をいただいた。


 それにしても荒井献先生や八木誠一先生や田川建三先生など東大西洋古典学科出身の影響力の高い学者たちが皆、アラム語説を支持しているのはどうしてなのか実に不思議です。田川先生などはこの件に関して『書物としての新約聖書』(勁草書房)の中でかなり辛辣に述べておられますね。私は素人ながら、当然、逆批判されるべき内容だと感じます。


 そういう偉い先生方は、まずヘブライ語を習熟していないのではないかということと、アラム語自体もご存じないと、申し訳ないですが、推量します。また、当時の文化的背景になるユダヤ文献についての知識(お読みなる能力)はないと思います。
 それと共に、イスラエル建国後のヘブライ大学における新約聖書学の研究の驚くべき成果に無知であり、また学ぶ思いも皆無だ、と思います。
 すべて、西洋の古典学では、ギリシア・ラテン中心ですから、セム語についての知識不足、およびヘブライ学派の知見の深さに盲目であるのも、仕方ありません。
 西洋の学者の物まねで、独創性はありません
 田川建三センセイは、ひどいことに、その著書にユダヤ的偏見と無知をさらけ出しておられます。学問的書物のはずなのに、イスラエル国家への中傷が気になります。


 イエス様も、言われましたね。「彼らは盲人を手引きする盲人である」(マタイ15・4)


 それでも、東大の市川裕教授など、ヘブライ大学で研鑽した学者もおられますから、次の世代では蒙が啓かれていくかもしれませんね
 
その読者さんは、「主の祈り」ヘブライ語版を、ブログに載せて欲しいとのご希望ですが、小生はこのブログにヘブライ語表記する方法を知りません。来月号12月号の、雑誌「みるとす」に掲載は可能ですが。

テレーマに当たるヘブライ語を教えて下さい。


 先ず申し上げたいことは、ユダヤ教の祈りは必ずヘブライ語で唱えられたということです。
 アラム語は、当時の英語に相当する国際語(lingua franca)で、祈祷の場合に使用しませんでした。
 それは今日まで、ユダヤ教での正式な祈りの言葉はヘブライ語です。


 それで、イエスは「主の祈り」をヘブライ語で教えられたことは、ほぼ確実です。
 現在、ギリシア語でしか新約聖書は伝わっていません。それをヘブライ語に翻訳する試みはいくつかあります。
「みこころ」は、ヘブライ語に訳せば、ラッツォンでしょう。「あなたの」の接尾辞が付けば、「レツォンハー」となります。詩編などに出てくる用語ですから、これは確かでしょう。
• 2011-10-02 13:59 河合一充