ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「神の子」の訳をめぐる議論

「CJC通信」の2011年10月10日付記事(http://blog.livedoor.jp/cjcpress/archives/51833643.html?utm_medium=twitter&utm_source=twitterfeed)について、若干私見を述べさせていただきます。
2011年10月6日付の英語版ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20111006)に、上記記事の元文に近いものを掲載しましたので、ご興味のある方は、どうぞご覧ください。

「神の子」をイスラーム圏でどう訳すかについては、「神の名」問題と同様(参照:「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071225)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080911)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080912)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090228)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090302)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090427))、マレー語への聖書翻訳の中心テーマの一つでした。

たまたま今、『みるとす』編集長の河合一充先生のツィッターhttp://twitter.com/#!/kawai_kazumitsu)で拝見したために、早速お返事申し上げました。

http://twitter.com/#!/itunalily65@kawai_kazumitsu  河合先生、実はその点が、私の研究の守備範囲です。'Anak Allah’(神(アラー)の子)と出てくるマレー語訳聖書は、植民地時代からずっと問題視されていました。この議論に関しては、長い文献リストがあります。今もマレーシアでは拮抗しています。

河合先生は、ユダヤ教ヘブライ語に精通されているので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111004)、反応が的確で早くていらっしゃいます。でも、某キリスト教系大学の神学部の新約学の教授(本当のご専門は詩編)に、数年前、この話を持ち出したところ、ギリシャ語の聖書を開いて鼻で(ふふん)と笑われただけでしたので、よく覚えています。私が、時々ブログで不満を漏らしているのは、上の先生がそういう態度だと、全体として士気が落ちるのみならず、研究そのものが停滞し後退するので大変に困る上、組織としての方向性も見失うものが大きいのではないか、と危惧するからです。
アラビア語ヘブライ語セム系言語なので、いくら新約文書だからといって、そこでギリシャ語を持ち出しては無意味なのです。マレー語にアラビア語借用語が多いことは、広く知られた事実ですが、立場の弱い私には、すごすごと引き下がるしかありませんでした。
ついでに申し添えますと、私の研究テーマに最も敏感に適切な反応を示されるのは、実は、マレーシアと国交のないはずのイスラエルに留学したことのある日本人研究者や、イスラエル人の先生なのです。これは、お世辞でも何でもなく、事実そのものです。
むしろ、「マレーシアという共通項」「地域研究」という名の下に、東南アジアやマレーシアに関わっている研究者が皆、良識ある理解を示すとは限りません。それに関しても、残念ながら長いリストがあります。
それどころか、奇妙な誘導をして惑わせようとする人までいます。私は、イスラーム圏内の聖書翻訳の問題を考えるのに、言語政策や教育問題、歴史、民族関係、その他の諸分野を勉強せざるを得ないと考えたので、「地域研究の知見を踏まえた上で」と述べているだけなのに、「キリスト教なんて、本屋さんで本を読めばわかるじゃない」など、とんでもないコメントを寄せた人もいました。
そもそも、そういう侮蔑的な軽い感覚で、学術研究に踏み込んではいけないのではなかったのではありませんか?
私は問いたい。そうやって、人類の共通の古典や他国の深刻な問題を自分の尺度で軽んじることが、どういう結果をもたらしたのか、世界史をひもとかなくてもわかるのが、常識というものではないんですか?どうなんですか、先生?
この件に関しては、まだ修養ができていないために、思い出すだけでも腹立たしくてなりません。