ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

手間暇がかかる作業

昨日も、夢中になって調べごとをしていたら、時間がかなり経過してしまいました。2800字にまとめるだけなのに、どうしてこれほど手間暇がかかるのか.....。
作業をしながら、思い出したことがあります。
2007年の2月頃だったかと思いますが、ある会合で、東京から呼ばれた発表者の研究内容に関して、質疑応答の際、思い切って私も、一言発言させていただきました。19世紀の中国で科学啓蒙普及のために宣教師として活動した西洋人のお話だったのですが、その中のある人々は、実は、中国に行く前に、東南アジアでキリスト教文献のマレー語の翻訳にも短期間、関わっていたからです。
それに言及すると、担当された司会の先生が「おぉ!」と、ぎょっとした声を上げられたので、こちらがびっくりしました。どういう意味だったのでしょうか?
それはともかく、私が驚いたのは、それに対して同席の先生が、「中国に入った西洋宣教師達は、実はそれほど学問的水準が高かったわけではない」「日本でも、森鷗外のような気骨のある人は、キリスト教を拒否したでしょう?」と、面と向かって応答されたことです。
当時の宣教師の出身階層や、キリスト教を受容しなかった日本の知識人のことは、国文学科出身ゆえに、学部生時代から、ほぼ常識として知っていたことですが、だからといって、研究の必要性がないとは思ったことはありません。成功例や高い水準のものだけ研究するのではなく、失敗例やうまくいっていない分野についても、貪欲に調べておくことは、余裕があればあるほど、大切なことではないでしょうか。
以前にも書いたことですが、欧米の研究をしている人は知的水準が高く、アフリカやアジアを研究している人は、その人自身の程度も低い、という態度を取る人がいました。いえ、実際に言われました。「私はぁ、ヨーロッパ方面の研究者だからぁ、エリートなんだけどぉ、あなたは、もう人生終わっているね」と。「ユーリさんが、マレーシアのことをずっと勉強しているなんて、おかしくってさぁ」。別に、好きでこうなったわけではないんですけど。

さて、今日は、久しぶりにマレーシアの伍錦栄博士からメールが来ました。「ジャウィ・マレー語で初めてキリスト教の祈祷書がイタリアのファノ市で印刷されたのは、1514年だ」と、シンガポール大学のアラブ・インド系ムスリムの若い研究者が本に書いているのですが、それを読んだ私は、「それはマレー語ではなく、アラビア語ではないか」と博士に連絡しました。2008年11月のことです(参照:2008年11月4日・11月7日付「ユーリの部屋」)。
実は、博士の方も、別の資料から同じく「初のマレー語のキリスト教文献は1514年だ」という文章を、2007年12月31日付のマレーシアの英語新聞『サン』やご自身のブログにも書かれました。それがキリスト教組織の発行物にも引用されていたのです。
実際のところ、フィリップ・ヒッティもバーナード・ルイスも、1514年の件は、マレー語ではなく、アラビア語だと、著作ではっきりと書いています。英国図書館のアナベルギャロップ氏も、論文で、当該祈祷書はアラビア語だと分類しています。
そのことを、先月もう一度、博士に確認したところ、今度はあっさりと認められました。「私も、不正確な資料に基づいて書いてしまった。もうすぐ新しく書き直すことにする」と。

こういうやりとりからも、水準云々という以前に、資料の未整備からくる不正確な情報が、引用に引用を重ねて広まってしまう弊害が、よくわかります。だからこそ、誰かが、証拠文献に基づいて、きちんとした作業をしなければならないのだろうと思います。そこでは、エリートかどうかだの、キリスト教受容や拒否に際しての気骨の有無だのという要素は、とりあえず除外されるべきではないでしょうか。