ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

大学と教会のネットワークで...

昨晩から、学会発表準備のために、まだ面会したことはないものの、かれこれ7年以上もメール等でご指導いただき、何かとお世話になっている南メソディスト大学神学部の教授のホームページや論文コピーなどを復習しています。
数日前に、無教会のように、一人一人がみずから聖書を学び、職業としては宗教組織とは別の道が望ましい、という意味のことを書いたのと矛盾するようですが(参照:2008年8月27日付「ユーリの部屋」)、改めて思うのは、世界中に張り巡らされているアメリカのネットワークの強みです。例えば、このロバート・ハント教授の事例でいくと、大学(教育指導と研究論文)と教会(メソディスト)のネットワークです。メソディスト系大学もあり(日本ならば青学や関学などが、教会を経由して教員人脈ルートを持っています)、学術上、世界中どこに行ってもアメリカ関連の何らかの組織に属することが可能で、孤立することはまずない、といってよいかと思われます。また、宣教師を世界各国に送り出すのみならず、留学生を世界中から受け入れるという点で、ダイナミズムがあります。
この先生とは、マレーシア滞在でいわば「ニアミス」(?)をしていて、出版された著作や論文は、ほぼ目を通していることもあり、なんだか懐かしく慕わしい気持ちを持っています。「ニアミス」とは、マレー語会話を学んでいた場所が偶然にも同じで、時期的にも重なっていたこと、また、クアラルンプールのウエスレー・メソディスト教会でも、ある日の礼拝説教で、マレーシア人の主任牧師が、ハント夫人の真剣な聖歌隊訓練の様子を語られていたのを覚えていること、ご夫妻をその教会堂内でお見かけした記憶があること、などです。もっとも、先生の方は、こちらが言えばそのまま受け止めてくださるものの、私を認識された形跡はありません。

そもそも、ご夫妻のなれそめは、福州人メソディストであるサラワク州サリケイ・シブ地区出身の奥様が、音楽の勉強のために、南メソディスト大学に留学されたことがきっかけだそうです。もしこれが、日本人とマレーシア人のカップルならば、と考えると、もちろんそのようなケースを存じ上げてはいるものの、これまでの限られた経験では、どうやら周囲の対応や見方がまた少し違うような気がします。アメリカだからこその余裕だとも思うことがあります。つまり、「アメリカは良いところだよ。意志のある人は、能力を磨いておいでよ」という招きが一種の余裕を生むという感覚です。日本の場合も、世界的に見れば、住みやすく自由度が高いとは思いますけれども、住環境や民族問題や言葉の面など、やっかいな点もなきにしもあらず、です。マレーシアに住み続けるならば、話はまた別ですが。

娘さんがまだよちよち歩きの1985年に、ご夫婦でクアラルンプールに降り立ち、7年にわたってマレーシアで過ごされました。当時のクアラルンプールを思い起こせば、むっとした湿った熱気のこもる、いかにも東南アジアらしい小さな国際空港で、タクシーやバスの車もポンコツが平気で走っていたりするなど、不便も多かっただろうに、ジャウィでもマレー語を学びながら、よくあそこまで、プロテスタント史に関する立ち上げのお仕事をなさいました。それが、宣教師としての訓練からくるものなのか、そもそも、アメリカ人とはそういう活動を喜んで受け取る伝統があるのか、よくわかりませんが。具体的には、まだ不整備な点も多かったであろう時期のマレーシア神学院で教鞭をとられたり、アメリカ系の小さな学院(これが今は非常に拡大発展しているのです)でも教えられたり、今よりも大ざっぱな感じのキャンパスだったマラヤ大学歴史学科で博士論文を書かれたり、ホテルを利用してマレーシアの教会史セミナーを開き、本にまとめられたり、キリスト教の組織化をはかったりされるなど、実にさまざまな活動をされました。私にとっては、この先生の働きがなければ、今でもどうしていいかわからなかったリサーチ領域もたくさんあるのです。つまり、日本の研究者がいくら優秀だとしても、この分野は、資料的にも資金的にも支援体制の点でも到底かなわないと素直に思うのです。これも、南メソディスト大学神学部の人材育成が成功している結果でもあり、合同メソディスト宣教団の人選と組織化もある程度しっかりしていることの反映ではなかろうかと感じます。
余暇には、ダイビングなども楽しまれたようですが、フレンチ・ホルンをされるためにマレーシア交響楽団でも一緒に演奏したことがあるそうです。履歴書を拝見すると、本当に多彩な活動をたくさんなさって、充実した人生を楽しまれているようで、敬服します。
当時の私なんて、お金には困らない自由な単身者だったはずなのに、暑さと異文化接触とで、とにかく疲れ切っていたのと、毎日、(こんなことをしていて、将来どうするのだろう)という不安が抜けきれませんでした。今ならともかく、当時の私の出身環境では、「マレーシアに流されるなよ」「2年で帰ってこいよ」「あんな所にいたら、もう将来はないと思え」などと出発前にきつく言われていたので、それを思い出す度に、すべてが中途半端になり、安定した心理状況なんて、まずあり得ませんでした。多様性に対する閉鎖的な態度から、私のことを心配しての発言なのでしょうが、今の自分の状況を考えると、そもそも原因はこうしたお餞別の言葉から来ているのではないか、とも思いたくなります。翻って、当然のこととして、現地の人々と協力しての研究と教育活動が、少なくとも5年以上は家族同居で保証されていたハント教授が、本当にうらやましいです。
テキサス州ダラスのご出身なので、初めの頃は、私自身も一種の偏見というのか、「キリスト教右派/超保守派」というレッテルで見がちだったのですけれども、考えてみれば、これほど大きな都市で、理系も強い地域なのだから、そんな単純なはずはなく、実際に、書かれたものを拝見すれば、ごく普通の常識ある穏健な主流派だということがよくわかりました。マレーシアには、やや独善的なキリスト教のグループを指導する外国人クリスチャンがいないわけでもないのですが、さすがは、良識ある主流組織を選んで接触されていた点、非常に参考になります。
マレーシアに7年滞在された後、1年間のサバティカル休暇をとって、英国やハートフォード神学校でも、マレー語学者兼宣教師だったウィリアム・シェラベア博士に関するフィールドワークをしたり、シェラベア資料を整理したりされました。論文を書き上げてマラヤ大学から博士号を授与された後は、シンガポールの神学院で4年間教え、そののち、ウィーンの英語使用メソディスト教会で7年間、牧会に当たられました。さまざまな地域や民族の出身者で構成される教会のようです。と同時に、これまたアメリカ系の大学でも宗教関係のコースを担当されました。2004年から、故郷に戻り、母校で教鞭をとるようになったそうですが、その頃、私にも「これからは名前で呼んでください。もう私達は研究上は同僚なのだから」とまで書いてくださいました。結局は、私の予期不安が的中して、同僚なんてとんでもなく、ただリサーチを続けているだけの者なのですけれども、今思えば、そのようなお誘いをいただけたことに対して、ノスタルジックな気分になります。
ちょうど思春期をウィーンで過ごされた娘さんは、ボストン大学を卒業後、ドイツやオーストリアでアルバイトをしながらドイツ語に磨きをかけ、ウィーンで最古だとされるアカデミーで国際外交などを学び、今がちょうど最終学年でいらっしゃるそうです。そればかりでなく、ドイツ系のボーイフレンドまでいて、一緒に暮らしているとか。そういうことをレターで公開すると、娘さんももう喧嘩別れしにくくなったりするのに、ご両親公認の結婚前提の関係として、もはやプライベートなことだとは考えていないのかどうか、その点はほほえましく思いました。
マレーシアに派遣されたばかりの1990年初頭は、マレー人やムスリムに対して、どのような態度をとればよいのか、私自身、困惑していました。日本の教会で言われていたことと、私が経験した現実が、合わないように思われたからです。結論を言えば、その教会の牧師の方が遅れていたというのか、狭く偏った見方をして、二十代の私に納得させようとしていたのだということが、今ならよくわかるのですが、この点でも、先をいっている合同メソディストのハント教授の論文やお仕事を通して、どれほど学び、教えられたことかはかりしれません。もっとも、考えの合わない点もあり、マレーシア人クリスチャンとも意見の相違があることは、私も知っています。でも、批判を受け入れ、地元の人々との接触を何より大切にしながら、その地域の人がまだこなせない仕事を請け負ってこられたことは、私にとって大きな励ましでした。
つくづく考えさせられるのは、マレーシアに関して、見ている資料も問題意識ももともとは同じだったのに、こんなに進路に開きが出てしまったことについてです。もちろん、ハント教授の方が私より十歳も年長でいらっしゃいます。また、神学教育をきっちり受けられ、単身ではなく、マレーシア華人の奥様同伴という強い味方があります。言葉の問題も、格段に違うでしょう。それでも、マレーシアのキリスト教というテーマに関する前提知識の問題や、研究環境などでは、土台やレベルがそもそも違うように思われるのです。
例えば、「西洋人(アメリカ)がイスラームを弱体化しに来た」などと主張するムスリムの存在についても、日本人研究者の中には、そのまま同調していた人が確かにいましたけれども、ハント教授に尋ねてみると、「そういうことを言いふらすムスリムがいることには気づいているが、資料上の証拠としても、そんな現象はありえない」「むしろそれは、非ムスリム圏で広まっているレトリックではないか」と自信をもって断言されていました。「ムスリムは、もっと正直にならなければならない」と。でも、こちらとしては、余計な神経を使わざるを得ませんでした。今となっては、これも無駄だったと言えます。
研究テーマの推移について書きますと...
マレー語聖書問題や、19世紀のマレー人へのキリスト教伝道を試みたウィリアム・シェラベア博士のことを、米国や英国のキリスト教組織が所蔵する大量の文書を活用しつつ、現地のクリスチャン指導者層やマラヤ大学の教官との協力の下に細かく調べ上げた後は、シンガポールで、東南アジアのイスラームについての研究と神学指導に移られました。そしてウィーンでは、ムスリム・クリスチャン関係とイスラームについて、東南アジアとヨーロッパを中心に論述された後、アメリカに戻られた現在はといえば、東ヨーロッパやメキシコ、英国、ベトナム、中国などへも積極的に赴いて、研究を進め、学生を連れて行ったり、各種宗教間対話の会合でも発言されたり、メディアのインタビューを受けたりしているのです。今は、キリスト教イスラームという軸ではなく、多元化社会における非キリスト教諸宗教が対象となり、グローバル化の中でどのように神学教育を行うのがよいのか、という点に重点が置かれているようです。振り返れば、生活の上でも、若いうちに苦労の多い途上国から始めて、徐々に文化的にも経済的にも差違の少ない暮らしやすい国へと移行されていったこともわかります。これも、ご本人の希望だったのか、合同メソディスト宣教団の意向なのか、どうなのでしょうか。
驚いたのは、今年の7月にマドリードで開催された国際宗教間会議にも出席されたことです。ここは、私のかつての職場の先生方も何人か参加されていたので、プログラムを見れば、ハント教授としても日本の状況について、恐らくはいろいろ思われたかもしれません。こういう点、機会を捉え損なったと見るべきなのかどうか、私には判断しかねます。というのは、東南アジアに集中されていた頃のハント教授は、イスラーム運動の問題点を追求するため、クリスチャンによるイスラーム理解という立場でいらしたので。もちろん、私のリサーチ・テーマと書いたものについては、大変激励してくださいました。地元密着でいくならば、マレーシアにはこういう側面もあると書き残さなければ、外側にいる宣教学の人にはわからないから、とのことでした。
奨励されていたのに、作業を滞らせたのは、私のせいです。これから、頑張らなければ!あ、そういえば、マラヤ大学での指導教官からもメールをいただき、言語関係の国際学会で発表するので、もうすぐマドリードへ行くのだと書かれてありました。この先生が博士号をとられたのは、今の私よりも数歳上の年齢の時でした。2003年にお会いした時には、「あなたならできる」と何度もおっしゃってくださり、「あと数年したら、私はもうここにはいない」と言われていたのに、制度が変更されたのか、人材不足だからなのか、はたまた、先生ご自身の気力と意志によるものなのか、本当に励まされます。
つくづく思うのは、植民地支配された土地の人々の方が、より頑張って個人として非常に伸びているということと、旧宗主国の側の人々も、制度として受け入れるルートや場を確立しているということです。「日本人は孤立している」「内向きで、広い世界情勢を無視している」とマレーシアでもよく指摘されましたが、確かに、今日ここまで書いてきた事例からも、その一端が裏付けられるといえるのかもしれません。