ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

翻訳によって価値を学ぶ

おととい(6月27日付「ユーリの部屋」)では、三位一体の「三」というのをなくせばけっこういけるのに、というムスリムの話を引用いたしました。実のところ、これは言語上の問題でもあるようです。ここで再び、Hugh Goddard教授にご登場願いましょう。非常に明快に説明されています(Goddard 2000:192-3)。

世界中のムスリム・クリスチャン関係の情勢を改善するのに多くをなしたかもしれないムスリム共同体の一つの変化は、結局のところクリスチャン達は三位異体論者(tritheist)ではないのだと、クリスチャンに対する態度に一定の傾向を示すムスリム達が認識したことだった。
この件は、クリスチャンの間でも、ムスリムとクリスチャンの間でも、三位一体について明らかに複雑で熱気を帯びた論争となった。
確かに、三位一体論説(Trinitarianism)はユニテリアン主義(Unitarianism)ではない。しかしどちらも三位異体論(tritheism)ではない。
ムスリムがこれを認識したら、キリスト教のよりよい理解の助けと同様、あるムスリム達によってキリスト教に対して明らかに感じられてきたひどい敵意の幾分かを取り除く助けにもなるだろう。
もちろん、ここには、言語的と同時に神学的な難しい問題が絡んでいる。三位一体を表すアラブのキリスト教用語tathlithは、確かに理解の促進に役立たない。
ほとんどのアラビア単語は3文字の語源か語根に遡ることができ、この場合では、ラテン文字の‘th’ ‘l’ ‘th’の音に一致する。これが一緒になって作り上げる単語thalathaとは、三という意味である。
そして、技術的文法的用語を使うならば、tathlithは、この語根から派生された動詞の第二型の動的名詞masdarから派生した。それは、通常「作る」という考えを含む。
それで、tathlithは文字通りには「三を作る」という意味に見えたのかもしれない。
これは、アラビア語の単語tawhidと、恐ろしいほど非対称的である。
同じ文法的な型を持つが、語根‘w’ ‘h’ ‘d’から派生し、wahidという語を共に作り上げる。これは「一」という意味でtawhidは「一を作る」という意味にとれる。
これは、「三を作る」とは大変異なる。
それゆえ、もしキリスト教アラビア語用語を改訂するか洗練させるかに合意できるならば、三位一体と三位異体論の違いをムスリムが理解する助けとして建設的であるかもしれない。

(以上拙訳)

しかし、私がいつも疑問に思うのは、どうしてミッションスクールに通ってキリスト教の祈祷文まで知っているようなムスリムでも、少なくとも公的空間においては、「この三位一体の概念は間違っている」と主張し、クリスチャンを押してくるのかということです。「あなたはあなたの宗教、私は私の宗教」というイスラームの教えを実践するならば、区分できそうなものですが。それとも、理解はできたとしても、「(異教徒には)あくまで抵抗せよ」の教えに従っているだけなのでしょうか。本当に不思議な壁を感じます。

さて、昨日は久し振りに本を借りてきました。

エレーヌ・グリモー(著)北代美和子(訳)『野生のしらべ』(Variations sauvagesランダムハウス講談社2004年
ジョン・バニヤン(著)関根文之助(訳)『天路歴程:光を求める心の旅路小学館1981年
ミルトン(著)平井正(訳)『失楽園[上][下]岩波文庫 赤206-2,3 1981/1992,3年第22刷
J.S.ミル(著)塩尻公明・木村健康(訳)『自由論岩波文庫 白116-6 1971/1992年第32刷

エレーヌ・グリモーは、フェスティバル・ホールでの演奏会プログラムで(参照:2008年5月30日付「ユーリの部屋」)、自著がベストセラーになり、数カ国語に翻訳されたと紹介されていたので、早く読んでみたいと願っていたものでした。
ざっと目を通して、なぜ私がエレーヌ・グリモーの演奏に惹かれていたかがわかったような気がしました。ユダヤ系の彼女は読書好きで、特に「文学のひと目惚れの相手は聖書だった」そうです(p.29)。興味深いのは「新約聖書には旧約ほど心惹かれなかった」と書かれてあることです(p.30)。ただし、祈祷文が「天使祝詞」とあるところから、多分カトリックなのだろうと思われます(p.51)。また、動物行動学については、今西錦司氏の東洋思想を紹介されています(p.107)。どうりで来日公演をよくしてくださるのですね。ギドン・クレーメルアルゲリッチなどのエピソードもおもしろく、またもや9月の演奏会が楽しみになってきました。圧巻は狼センターをニューヨークに立ち上げたことです。本当におもしろい本で、夢中になって読めそうですが、まだ後のお楽しみにとってあります。

バニヤンは、C.S.ルイスが「クリスチャンになると頭がよくなる。バニヤンはろくな教育も受けていなかったが、あのようにすばらしい本を書いた」などと言っているので、(私も頭がよくなりたい)と思って借りました。
というのは半分冗談で半分本気です。正確には、「クリスチャンになろうとして誠実に努力している人は、やがて自分の知性が鋭くなったのを発見するにちがいない。クリスチャンになるのに特別の教育を必要としないのは、キリスト教がそれ自体教育だからである。バニヤンのような無教育な信者が、全世界を驚かすような本を書くことができたのも、そのためなのである。」(C.S.ルイス・柳生直行(訳)『キリスト教の精髄新教出版社 1977/1990/2004年 p.131
実は、英領マラヤ時代にマレー人伝道を試みたウィリアム・シェラベア博士が、英語からマレー語に訳した小さな『天路歴程』(“Pilgrim's Progress”) の冊子を、2005年8月にハートフォード神学校で見ていたので、この際、日本語でも読んでみようと、ようやく機会を得たわけです。確か、岩波からも出ていたと思います。
翻訳者の関根文之助文学博士の解説によれば(pp.158-9)、ジョン・バニヤン(1628-1688)は、イギリスのベッドフォードの寒村に貧しい鋳掛屋の子として生まれたそうです。教育は受けなかったのですが、ひたすら聖書を読むことによって多くのことを学んだとあります。イギリスでは、聖書に次いで、多くの人々に愛読されているのだそうです。また、世界でも翻訳されて、多くの愛読者を得ているとのことです。「これからの日本人にとっても、とくに「心」の問題を考えていかなければならないとき、きわめてたいせつな、「心の糧」となるべき書物といえよう。」と結ばれています。なお、日本での最初の刊行は明治12年(1879年)で、唐紙173枚からできていたとのことです。
こうしてみると、英領マラヤで、なぜシェラベアがあのような翻訳を試みたのかがよくわかります。また、同じアジアの非キリスト教圏であっても、英語教育が一部に浸透したのにこの翻訳を受け入れようとしなかったマレー人と、英語圏ではないのに現代(1981年)でも翻訳が続行されてきた日本との相違も考えてみるべきですね...。

ミルトンは、今月の東南アジア学会で発表した時にもレジュメに書きましたが、マレーシアで英語教育を受けたクリスチャン指導者層が「私達は英語で『天路歴程』や『失楽園』になじんでいるが、若い世代のためにマレー語の翻訳が望まれる」などと発言していた資料を見つけたので、学生時代以来の再読となった運びです。実際には、マレー語に訳された形跡はどうもなさそうです。まずは、翻訳者が見つからなかったことと、この種の本は読むなら英語で、というパターンが決まってしまっているのでしょう。それにしても、マレー人はこういう本を読むのでしょうか。中国語教育を受けた華人クリスチャンなどは、中国語で読むのでしょうか。
何年も前のことですが、マリナ・マハティールさんが、マレーシアの普通の国民学校に入れていた娘さんを、学校水準などの理由で、結局はヨーロッパの学校に転校させた時、16歳になった娘さんから「ダンテの神曲ってすっごくカッコいい!」と手紙をもらったなどとコラムに書いていたように記憶しています。つまり、マレーシアの通常カリキュラムでは読ませてもらえない、読むチャンスのない本を、ヨーロッパの学校では自由に教わるという喜びなのです。もちろん娘さんは、自分が特権階級の出身だからこのような機会に恵まれていることを承知の上で、「マレーシアの友達にも教えてあげたい」と書いてきたのだそうです。
ここでもまた矛盾を感じるのは、冒頭の三位一体の件と同様で、なぜマレー人の指導者階級は、自分達が英語教育で味わったはずであろう精神の自由や解放感に対して、現在の一般マレーシア人の教育課程をそれほど狭め低めて満足しているのか、ということです。イスラームとマレーの価値で国民統合するとはいえ、あまりにも知的に偏りが出やしないでしょうか。

そういえば、2003年だったかに、カトリックのマラヤリ系研究員の男性から、「マハティールの問題は、二つある。不正直さ(dishonesty)と人々の知性を破壊したこと(destruction of people's intelligence)だ」と聞きました。

最後の『自由論』も学生時代からの再読です。これを平気で読んでいた二十歳前後を振り返ると、過去18年間、相手文化を一生懸命に理解しようとするあまり、自分を抑えつけてきた過程および環境が、いかにも間違っていたかのように思われてなりません。