ミーンズ夫妻の生涯
今日は、5.15事件を思い起こす日だったのでした。これもそれも、犬養道子氏の著作に触れていなければ、全く忘れ去ってしまっていたことでしょう。
さて、先程、マレーシアから激励メールが届きました。昨日書いた本について、著者の義母つまり主人公に当たるNathalie Means夫人を自宅に泊めた経験を持つ方からです。私の取り組んでいるテーマや口頭発表などが、とても「エキサイティング」なので、「パワーポイントがあれば」見たいし、「是非とも出版することを考えるべきだ」とのことでした。出版とはつまり論文化のことですが、日本語ならば、日本側が意義を感じてくださるかどうかにもかかっている上、英語ならどこに出すべきか、戦略を練らなければなりません。
私はマレーシアに数年間居住していたので、少しは現地のクリスチャンの状況に触れています。日本で研究者としてのキャリアをまっしぐらに進むのであれば、もっと要領のいい方法があることは知っていますが、位置づけが難しかったのは、この現地滞在のせいでもあります。しかも、マレー人の学生に教えていたわけですから、ムスリムに対して、ストレートに批判しにくい面も多々あるのです。
昨日の本については、今日、すべて読み終わりました。351ページある割には夢中になって一気に読めてしまったのは、筆者の力量もさることながら、困難の中にあっても常に前向きで、晩年の80代になっても、識字教育や聖書翻訳やサバ・サワラクの先住民族の言語調査などの地道な学問的教育的活動に、ご夫婦で献身されていたという真摯な姿勢が、混沌とした現代にあって何か惹きつけるものを持つからだろうと思われます。
考えてみると、狭いサークルの話といえばその通りなのかもしれません。アメリカのメソディスト教団が宣教師をスマトラやマラヤに送り、近代化ないしは社会向上のため、先住民族の人々に識字教育をし、同時に、その根拠としてキリスト教伝道も試みるという....。この本の主人公であるミーンズ宣教師夫妻の活動も、手記や書簡をまとめれば、このような一冊の本に仕上がるものの、実際にオラン・アスリの中からキリスト教化する人々がどのぐらい出ているのか、と言えば、マレーシア全体では、比較的少数のいわゆる‘周辺’の人々の話ですから、数値としては必ずしも高いわけでもありません。イスラーム改宗したり(また戻ってきたり)その他の宗教の人々も含まれ、当然のことながら、先祖代々の伝統を守り続けている人々も多いからです。しかし、「キリスト教化」および「教会に連なること」が、神学的にあるいは信仰的に「神の業」だと把握する立場にあるならば、宣教師夫妻の人生の一こま一こまも、神の手に導かれた道程と解釈されるために、膨大な書簡の公開および小さな活動のように見える教会形成の行程が、重みを持って語られる所以があるといえるのではないかと愚考しています。
一方、現在の識字教育や啓蒙活動がキリスト教を前面に出すものではないことは、久しく「常識」となっています。宗教色を出さないNGOや国連機関などが、高度な専門性を持って対処するのが現代だからです。この本に書かれている活動は、いわば前世紀のキリスト教宣教の話であって、現世紀の状況とはかなり異なります。現代の先端テクノロジーの導入や経済発展や世俗化社会における高等教育の進展、中間層の増大、情報化社会を思う時、今更、この種の活動の根拠にわざわざキリスト教を持ち出すなんて古くさい、と言われれば、確かにそうなのかもしれません。しかしながら、今のように簡単に安価に現地に飛べるような環境になかった時代に、キリスト信仰あってこその識字教育および言語調査そして聖書翻訳であってみれば、第三者的に批判するのは容易であっても、やはり、時代背景や社会文脈を考慮の上で、それはそれとして尊重すべきなのではないかと思われます。無知、偏見、恐れ、迷信などが、先住民族の人々の生活向上を阻んでいるとするならば、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書 8:32)(日本聖書協会訳 1987年)と聖書に記されている通り、教育によって状況改善を試みるべきであり、それは尊い業なのだというキリスト教的観点です。
ミーンズ夫妻の驚くべき行程は、次のような点にも現れています。実際の現地活動は、1927年から1932年までと1934年から1939年までの計10年であり、その後は、折に触れてマレーシアやインドネシアに戻り、その他はインドで識字活動に従事したり、ヨーロッパ各地や近東を訪問したり、米国の大学で宗教学の教授を務めたり、奥様の方はフランス語やラテン語や高等英語などを教えたりしたようです。また、お子様達もそれぞれ宣教師家庭に育った経歴を活かして、国際的に活躍をされるなど、足跡は確実に受け継がれているようです。しかも、メダンに滞在する前の若い時期に、ご夫妻それぞれが、イエール大学やオックスフォード大学やマールブルク大学やソルボンヌ大学で勉強して学位を取得し、スマトラ滞在の合間には、ナチ支配下のドイツを憂えて、ポール・ティリヒやディートリッヒ・ボンヘッファーなどのドイツ系神学者の思想を援用しながら、「ドイツにおけるキリスト教と社会危機」と題する博士論文を提出してもいるのです。
ともかく、活動範囲の広さには驚かされます。そして、オラン・アスリ伝道に従事していたからといって、必ずしもそれだけの人生ではなく、ドイツ語、フランス語、ラテン語、サンスクリットにも通暁されていた、視野と見識の高さ。しかも、マレーシア政府からビザ発給をたびたび遅らせられながらも、希望を抱いて次の仕事を常に準備していた用意周到さ。死の床にあって、「もう予約は済んだかい?」「予約って?」「マレーシア行きの予約だよ」という会話を夫婦で交わしていた深い情熱(p.308, 312)。
まさに「神のために、国のために、イエールのために」というスローガンに従った人生そのものでした(p.304)。真の意味で、古き良き時代のアメリカをそのまま体現したようなご生涯だったように思われます。