ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

一つの回顧とまとめ

さまざまな事情で、やむを得ずこれまで長年、一人で勉強を続けているので、状況把握に戸惑ったり時間がかかったりしていますが、今回の件で、鬱屈した思いが少しずつやっと晴れかけてきたような気がしています。
結局のところ、イスラームについて、さまざまな立場の人が、それぞれの自分の人生経験と学識に基づいて、いろいろな発言をしているという状況なのでしょう。日本も含めて、英語圏、ドイツ語圏、フランス語圏で、それぞれのニュアンスがあります。また、西洋諸国ではあっても、元は植民地だったアメリカのように、独立後は世界中から移民(グラデーションのように濃淡をつけて)を引き寄せ、理念に基づいて国家形成をしてきた国と、欧州のように、民族史としての格闘を積み重ねながら国造りをし、植民地経験で他者支配をした上で、その克服に努めてきた現代を生きているという場合では、多少、世界観が異なるのもやむを得ないでしょう。
イスラームに関しても、外部者(非ムスリム)の知見と内部者(ムスリム)の主張の両方があり、クリスチャンの中でも、大凡否定的だったムスリム・クリスチャン関係の史的側面の克服に努めようと尽力している開明的な立場もあれば、伝統的な見方の保持を優位に置く立場もあります。私の知るところでは、余程のことがなければ、通常は、あるがままのイスラームを知的にも実践面でも理解しようとしているとは思いますが、必ずしもクリスチャンばかりが問題を起こしているとも言えず、ムスリムの側にも相当の努力目標が必要とされている場合もあるかとは思います。
しかしながら、国際情勢などに左右されたり、マスメディアの報道姿勢に影響されたりすることの多いイスラームムスリム問題なので、肯定的な関係構築をと思っていても、ちょっとしたことで相互に否定的になったり、結局は、神学論争の無意味さから、人間関係の良好な接触のみに留めるという方向性で当座の折り合いをつけている場合もあります。
問題は、ユダヤ教から発生してキリスト教、そしてイスラームという史的な流れがあるにも関わらず、イスラームが、クルアーン的展開で「我こそが最後の完結した宗教」と主張していることにあります。それが事実に即しているならば支障はないものの、ユダヤ教キリスト教の実際とは明らかに異なる部分を、「これこそが正しい」とイスラームが主張するために齟齬が生じていることは直視すべきで、その克服なしに根本解決には至らないだろうと思います。
だから、公平に物事を見ることが非常に難しく、やっかいなのがこの分野だと思います。特に、自分の主張を政治的にも押し広げようとして頑張っている個人ないしは集団があると、その他の見解が傍流に寄せられてしまい、実は問題が深化してしまっていることもあります。
マレーシアの場合、私のテーマであるマレー語聖書の問題に関しては(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120623)、ハント先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121024)がかなり昔に私に教えてくださったこととして、「マレー人の政治家は嘘をついている。残りのマレー人は(鵜呑みにしている点で)馬鹿だ」というもので、恐らく、当時としてはそれが本音だっただろうと思うのです。だから、「イスラームをポジティブに見ましょう」という、近年のハント先生の論考は、あくまでアメリカ人クリスチャンとしての、公的で啓蒙的な立場からのものであって、「ポジティブに」と掛け声をかけている点で、実際に非ムスリム少数派が直面しているムスリム国内の問題が隠れてしまう恐れは充分にあります。逆に言えば、「ポジティブ」でない状況が前提とされていて、現実は問題を多く抱えている、ということでしょう。
私の過去の経験でおかしかったのは、非ムスリマの私の方が遙かにイスラーム文化の接触経験は長いはずなのに、日本人の改宗ムスリマの20代の女子学生から、「もっとポジティブにイスラームを考えましょう」と言われたことです。これこそ逆行の最たるもので、グラウンドで円を描いて走るマラソンで言えば、何周か遅れて走っている人が、実は最初から先頭グループで走っている人にやっと追いつき、抜かしたつもりになって、「遅いですね」と声をかけているようなものです。
それに、キリスト教の方も自己批判をしつつ現在に至っているわけですから、ムスリム側も「ポジティブに」と他者に押しつけてばかりいないで、内省する必要もあると思います。相互が同じ土俵に並ぶと、歴史が数世紀分長いだけに、キリスト教側が圧倒的に不利で過去の非を責め立てられることが多く、ムスリムだというだけで比較的優遇されているのが、現状ではないかと思うのです。この不公平さについては、マレーシアのクリスチャン研究者Dr. Ng Kam Weng(伍錦榮博士)((http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120522)が、私に不満を漏らしたことがあります。ついでながら、2009年秋にマレーシアを訪問した際、「ロバート・ハントさんも、長い遍歴を辿っているよ。彼はやっと認めた。『私は楽天的過ぎた』って」と。ご本人に私からメールでさり気なく確認したところでは、否定もせず沈黙のままだったので、どこか思い当たるところがあるのでしょう。
ここ数日、つくづく思うことがあります。それは、アメリカのキリスト教宣教師が、日本人に対して何を言い、何をしてきたか、です。最初から我々非一神教社会では、イスラームを東洋宗教として、文献学的に研究をして業績をつくった経緯があり、キリスト教についても、信仰者は少なくとも、知的文化面では必死に吸収した面もあるのに、しばらく前までは「日本人は宗教に無関心だからいけない」「心を入れ替えるために、キリスト教を信仰しなければならない」みたいなことを盛んに説教し、責め立ててきたように思います。ところが、自分達の住むアメリカ社会が宗教的にも多様化してくると、今度は「イスラームを肯定的に理解しなければならない」「多元化した宗教社会を受容すべきた」と主張を変えてくるのです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100223)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110819)。一体全体、キリスト教にせよ、イスラーム問題にせよ、諸元は西洋社会の問題だったのではありませんか?(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090430
我々は、我々の文脈で理解をしたり、必要がなければ静観したり無視したり、それなりの選択をしてきたつもりなのです。それなのに、自分達の置かれた状況によって、勝手にこちらを引き回さないでほしい、と思います。
その意味では、確かに、バーナード・ルイス氏の言うように、ユダヤ系学者のイスラーム理解は、ムスリム圏内で暮らしていた歴史はあっても、ムスリムを支配したという史的なしがらみがなかったために、また、非常に類似した律法の宗教であるために、理解が非常に早く深い、ということは本当だと思います(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120617)。ダニエル・パイプス氏も、あのように活発な言論活動に政治とアメリカ独特の現状が絡んでいますが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121023)、少なくとも、ユダヤ系だという意味では、クリスチャンにない独自のイスラーム理解があるはずで、そこは我々も素直に学ぶべきだと思っています。