ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

私にとっての望ましい地域医療

マレーシアの教会放火事件に関して、ようやく8人の若者が逮捕され、これでひとまず、事態が落ち着きそうです(参照:“Lily's Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100121)。
実を言えば、今週は予定の入らない1週間のはずだったので、これで集中して本件にまつわる資料整理に没頭できるものと見込んでいました。ところが、なんということか、事もあろうに、月曜日から関節痛、咳き込み、頭痛、食欲不振、微熱(平熱が低いので、8度以下でも私にとっては高い)に併行して、おなかまでこわしてしまったのでした。あの、マレーシア滞在計4年間でも、びくともしなかった私のおなか...。
胃腸だけは丈夫で、子どもの時から、高熱が出てもご飯だけはパクパク食べて(すぐに治って)いたそうですから、本当に珍しいことです。恐らく、これまでの人生で初めてではないかな、こんなこと。
何というのか、内臓全体がだるい感じで、動きたくてもおなかに力が入らず、お茶を飲んでもそれが胃壁および腸壁を刺激するような感触でした。初日は軽く考えて、寝ては起き、すべきこと(と思ったこと)を少しずつしてはみたものの、二日目には、とうとうダウン。一日中寝ていました。この時期、インフルエンザだけは気をつけていたつもりでしたが、学校を卒業して以来、予防接種も受けていなかったので、どうしたものか、と。
もし、過労が原因だとするならば、絶対、マレーシアの教会破壊事件が関係しています!(と、人のせいにしても始まりませんが。)
というわけで、昨日はようやく熱が下がって楽になったけれども、咳とおなかの状態が続いていたため、午前中にお医者さんに診ていただくことにしました。こういう時には、病院に行くものではなく、まずはご近所、つまり町内の個人開業医院へ向かうのが筋だと考えます。前日の夜、主人に「明日、○○先生のところへ行ってくる」と宣言したところ、我ながら、病状にもかかわらず、勇気凛々、気丈になってきました。
その「○○先生」は、2008年2月10日付「ユーリの部屋」でご紹介させていただきました。あれからしばらく、片道徒歩20分ほどを要する買い物ついでに、時々裏手に回って医院の周辺をチェックしておいたので、○○先生も週一ぐらいは担当されるものの、二代目の院長先生は、昨年からご子息に替わっていることが予めわかっていました。
もともと、前述のように、10歳までの子ども時代を除き、もっぱらお世話になるとすれば、眼科、耳鼻科、皮膚科、外科ぐらいだったので、いちいち内科専門の○○医院を見学しなくてもよさそうなものですが、年齢から、いざという時のかかりつけ家庭医のような先生がいらしたらいいなあ、と思ってもいました。ただし、医学の専門が細分化した昨今、結局のところはあまり期待せずに、自分の身は自分で守るしかないのかなあ、とあきらめてもいました。一方、心のどこかで、医業の傍ら、借金ゼロで隣に大きな教会堂まで建ててしまった○○先生の威力に、より頼むところがあったのでしょう。確かに、学会や研究会で、変てこりんなコメントを聞かされてうんざりして疲れて帰ってきた時など、あの大きな教会の十字架が目に入るだけで、どこか安心してほっとしていました。
○○先生は、日記のような文章を毎日ホームページに書いていらしたのですが、予定通り、退職の時が来たら、スパッと潔く閉鎖してしまいました。その前後に、医院の改修工事の様子をちらりと見に行ったりもしていたのですが、○○先生と奥様のことはだいたいわかったとしても、そのご子息までは全くわからず仕舞いでした(町内とはいっても、地理上はかなり離れていますから)。
唯一、知り得た情報としては、町内の個人経営の医院の中には、子どもが後継ぎを嫌がったりして、一代で閉鎖せざるを得なかったり、他の人を雇って続けたりするケースが少なくないのに、○○先生のところは、ありがたくも息子さんが後継ぎを申し出てくれたこと、そのお名前が、誰が見ても聖書名だとわかること、しかも、ユダヤ教徒ならば「我らが師〜〜」と興奮して叫ぶような偉大な人物の日本語読みつまりカタカナ表記だということ、でした。
う〜ん、そこで私は考えてしまったのです。○○先生のご子息が、いくら牧師の子だからといって、そういう目立つ名前をお持ちならば、妙な教会信徒プレッシャーか神がかり的な信仰上の圧力がかかって、もしも、とても風変わりなお医者さんだったらどうしようか、と。かといって、他の医院を探し回るほど暇ではないし、できるだけ近い方がいいし....。
という逡巡を私なりに経ていたので、上述の「勇気凛々」は、決して大袈裟でもなかったのです。

結論を先に申しますと、とってもいい先生でした!丁寧で柔和で落ち着いていて、とても腰の低い先生なのです。先生の診察を受けただけで、半分治ったような気がしたくらいです。(今でもこういうタイプのお医者さんがいらっしゃるなんて、さすがは○○先生、子は親の背を見て育つ、とはこのことなのですね、と、またもや一人でいたく感銘を受けていました。もちろん、○○先生の奥様の力も大きいことは言うまでもありません。)鼻に細長い綿棒のようなものを差し込んで粘膜を取って調べる、簡単なインフルエンザ検査では陰性でしたが、かといって、そうではないとも言い切れないそうで、その微妙なところも信頼感にあふれていました。

○○先生の時には、殺風景なほど清潔で無駄なものが全くなく、昭和40年代ぐらいのレトロな医院をそのまま維持、という内装でしたが、今回初めて足を踏み入れ、さすがにモダンというのか、私の時代精神と合致するというのか(二代目の「我らが師〜〜」先生は、私より二歳年下)、ノスタルジーに浸る暇もないぐらい、すべてが「現代化」していました。(詳しくは、先生のエッセイ入りホームページがありますので、どうぞご覧ください。なかなか味がありますよ。)
時代によって、「変わるもの、変わらないもの、変えるべきもの、変えてはならないもの」があるといいますが、変えるべきものが、バリアフリーのスロープや自動ドアやコンピューター設備などであるとすれば、この医院で(変わってないなあ)と思ったのが、受付に教会週報が置いてあったことと、待合室がさっぱりしていてテレビなどうるさいものがなく、読み物も『信仰講話』のような、いかにも教会推薦図書のような本が少しだけ遠慮がちにコーナーに置いてあり、子どもだましのようなおもちゃや週刊誌など世俗的なものが一切ないことでした。これは実は、私の好みでもあり、この医院の最も落ち着く点でもありました。
もう一つ興味深かったのがカルテの書き方で、○○先生と「我らが師〜〜」先生とでは、雰囲気はかなり違うのに、カルテではそっくりの字体を書かれ、その書き方まで似ていることでした。やはり血は争えないってことですね。

週報を読むと、牧師も世代交代されたためか、印象が少し変わり、読みやすくなったように思います。以前は、健康情報と聖書情報が入り混じっていて、そこが私(と周辺)の誤解の元でもあったのですが、今は、さすがに牧師は牧師、医師は医師と分業がはっきりしているために、そのようなことはありません。思うに、一代目の先生の時には、時代に相応していた面も大きかったのではないかということです。○○先生は、チャレンジがお好きなようでしたし、昔はクリスマスと言えば、教会に子ども達が100名ほど集まった時期もあったとか。だったら、「クリスチャンのお医者さん」ということで、信頼も高まったのではないでしょうか。

ただ、やはり時代は変遷していくもので、正直なところ、私にはちょっとついていけなかった面もあります。例えば、引っ越してきてしばらくたった頃、偶然、道で見かけた路傍伝道。(あぁ、まだあんなことやっている教会があるんだ)と、しばし違和感を持ちました。それがなぜ○○先生の教会だとわかったかと言えば、時々、私の住む地区にも週報が郵便受けに入っていて、そこに路傍伝道のことが書いてあったからです。
それとの関連で、今回、思わず不謹慎にも笑ってしまったのが、お薬袋。
「内服薬」の下に「うらもお読み下さい」とわざわざ書いてあり、指示に従うと「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(聖書)と印刷されていたのです。こういう薬袋は、これまでの人生で初めていただきました。ねぇ、先生、誰でも、病気を抱えて医院を訪れて、聖書の説教までされたくはないのではないでしょうか。さらに、その下の注意書きの後には、「神は愛なり」とありました。来ました来ました!これですよ、これ。マレーシアなら、「アッラーは偉大なり」とジャウイで書いてあるようなものです。
多分、先代の先生のお薬袋が余ったので、もったいなくてそのままお使いなのではないかと勘ぐってもみました。資源は大切に、エコ時代ですから。それに、「我らが師〜〜」先生も、とってもまじめな方のようですし。
ただ、笑いで病気を治すという観点からすれば、効果の程はいかに?
冗談として思いついた聖書の言葉が、「その病の中にあっても、彼は主を求めず、医者に頼った。」(歴代誌下 16:12)「そこには医者がいないのか。」(エレミヤ 8:22)「医者よ、自分自身を治せ」(ルカ福音書 4: 23)などで、これはコンコルダンスから借用したものです。こういう楽しい文も、聖書には含まれているんですよ。もちろん、文脈無視の勝手な引き抜きに過ぎませんが。
もし、どうしても聖句を印刷して患者を励ましたいのなら、次のようなものはいかがでしょうか、と私なら思います。
明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ福音書 6:34
願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ福音書 16:24
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書 16:33
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントⅠ10:13
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」(フィリピ 4:6
〈以上は、日本聖書協会新共同訳』からの引用による〉

いずれにせよ、もうしばらく経てば、薬袋も新たに「我らが師〜〜」先生風に変えられていくことと思います。とにかく、地域医療の原点を再確認させられたような昨日の受診でした。
え?その後の様態はどうかって?あ、お薬(プラスありがたい聖書の言葉)のおかげで、かなりよくなりました。まだ本調子ではありませんが、その証拠に、ほら、今日もこんなに書いてしまいましたよ。