ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

日本の教会についての一視点

2008年 1月 31日に届いた刊行物から、以下を紹介いたします。
財団法人日本クリスチャンアカデミー機関誌はなしあい』(2008年1・2月号 第491号
巻頭のことばとしての、理事長シュペネマン・クラウス氏「他者のための教会」の部分要約です。
・38年前に来日。日本クリスチャンアカデミーが教会とはほとんど関係がなかったことに驚いた
・日本の教会は閉鎖的であり、社会には関心がないと言われた
・「閉鎖的」=「他者を中に入れない」態度←社会学が組織化の程度の弱いグループの傾向に特徴づけるためによく使う言葉
・教会の本質に関する理解が根本的に間違っていると、教会が社会に関心がなくなる
プロテスタント教会は、救済に重点を置いて、人間の日常生活を罪の観点から否定的に見る傾向がある。健康、滋養、居住、休養、遊戯などは、一語でいえば、人間の幸福は「究極以前のもの」として神から人間に与えられた権利。この権利を保護するのは「他者のための教会」の義務と責任←ボンへッファー自身と彼が影響を受けた告白教会のナチズムに対する抵抗の根拠
・アカデミーは、キリスト教の社会に対する奉仕の一つの姿
・正義、平和、いのちが尊ばれる社会は、神が人間のために目指す社会
・「はなしあい」は倫理的判断のために最も重要な方法だが、倫理的には中立ではない

おっしゃることはよく理解できますし、趣旨に賛同いたします。

ところで以前、ある教会の牧師に、「日本クリスチャンアカデミーに献金を定期的に送っているんです」と言ったところ、文字通り笑われたのが、今でも気になって仕方がありません。どういう意味なのでしょうか。「あそこは実は…」ということなのか、それとも「それなら、もっと教会にも献金しろ」ということなのか。理由も説明せずに、人が自分なりに考えて自発的にしている行為をただ笑うのは、一般社会においても失礼だと思います。その牧師の恩師に当たる先生方は、何人かそのアカデミーで講師としてお話になられたのですから。神戸バイブルセンターでお話しくださった白方誠彌先生も、2006年に、人の尊厳についてのテーマで講師を務められたことがあります。
関西に来て気づいたことは、結局、大阪万博以来の教団紛争のしこりが、どうやらまだ全面解決をみていないらしく、同じ教団の牧師同士であっても、師事/私事した先生や教授によって、初めから喧嘩腰になっているような側面があるのではないか、ということです。これは、父方母方の親戚一同が皆牧師だという名古屋のある方からも、お電話で指摘されました。「関西は学閥があって、教会の関係も難しいですよ」と。迷惑するのは、そういう水面下の対決を知らない外部の者が教会に足を踏み入れた場合です。
それならば、みすみす政治的な争いに巻き込まれなくとも、自分で聖書や参考文献を読んで静かにしていた方が、よほど精神的にも健全だということもあり得ます。
繰り返しますが、私がここで書いていることは、単なる憶測ではなく、私自身が経験した範囲内で感じたことを述べているのです。それを否定するのは、大袈裟でも何でもなく、私自身の人生の一部を否認することになります。
ですから、いろいろな経緯を経て最も落ち着くのは、故前田護郎先生が書かれているものです。実は先生も、関西のクリスチャンアカデミーで講演されたと、ご自身で書き残されています。ともかく、私自身が、学生時代から言語学方面に関心をもって勉強していたこともありますし、先生の海外での学識経験が豊かであられるので、学問的であると同時に、世間一般の、キリスト教も含めたいわゆる宗教団体の一部弊害などの問題にも、きちんと触れていらっしゃるからです。そうそう、と頷けるものが多く、(よく書きとめておいてくださって)と、お礼を申し上げたくなります。
そこで、例によって、心静めるために、昨年2月8日、読みながらメモをとったノートを基に、部分抜粋の要約をしたいと思います。表記や表現は、メモのため正確ではない部分もありますが、その旨ご了承ください。
前田護郎世界の名著12 聖書中央公論社 1968年/1976年15版

・学問を真剣にすることは信仰をそこなわない。ますます信仰のためになる。(p.13)
・聖書を学問的に掘り下げれば、こんこんと湧き出る真理の泉に接することができ、その泉はほかの諸学科をもうるおして、それぞれの学問を生かすものである。(p.13)
・人を束縛する経典至上主義は、宗教体制の形式化と共に後の時代に発生したもの(p.15)
・聖書の非経典性(p.17)
・世の荒波にもまれ、自他の人間性の弱さ貧しさに苦しむものが静かに読む聖書こそ、その本来の姿であり、そこにその力が発揮される。(p.18)
・聖書に対して違和感が抱かれるのは、聖書がキリスト教会の経典として敬遠される場合に多い。(p.18)
・聖書の精神が真の意味での宗教あるいは教会を形成するという史実(p.19)
・教会史を聖書解釈の歴史と見ることも可能であり、また必要でもある。聖書が冷静な良識を持って読まれたときに、いかなる力を発揮するかを事実に即して観察すべき(p.20)
・いわゆる宗教が多くの経済的負担を信徒にかけるのに対して、一巻の聖書はだれの手にも届くもの(p.21)
・現代でも宗教家がみずからの立場を守るために儀式や教義を第一にして聖書を第二にしようとする場合が少なくない。(p.21)
・結局いわゆる教会だけが聖書を伝えたのでなく、すべて文化現象という広い視野で事実を観察すべきである。聖書も文化現象の一つ。(p.22)
・すべての人が勝手に聖書を読むのは危険である、という宗教家がある。しかし、宗教が少数の宗教家によって左右される危険とどちらが大きいか。健全な宗教は平信徒の良識によって支えられる。(p.22)
・聖書が読めるというのは、結局文化を土台にした教育その他を前提とする。(p.22)
・聖書がいかに多く読まれたか←写本の質と量(p.22)
・隠れたところに真の教会あり(p.26)
・思想史、科学史、政治、経済―聖書がいかに大きな役割を演じていることか(p.26)
・違和感を抑えてすべて聖書にあるとおりを信ぜよ、というのは、宗教の経典としての権威をもって信徒にのぞむ態度。逐語霊感説は、文字をもって信徒を束縛する迷信に陥る危険をはらむ(p.27)
・人間が人間を暴力で倒しても理想の社会は実現できない(p.38)
・人間の実態や精神の動きを明らかにする学的な操作には感情の抵抗がある→それを乗り越えるところに近代の諸学の成果が上がる(p.40)
・現代に聖書が埋もれているのは、聖書があまりにも人間を赤裸々に描くからである。それを無視するのはまだ近代以前の段階にあるといえる。(p.40)

(以上)