ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アナログとデジタルの共存併用

さて、気分を変えて旅の余韻でも、と思ったのですが、その前に...。
1.新規パソコンの調子がどうも悪く(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130929)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131003)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131005)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131006)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131011)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131015)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140103)、とうとう、ウィンドウズ・ライブ・メールの保存が破損してしまいました。最も恐れていた事態です。
1998年から2012年8月まで、メール保存用に、一年ごとの送信および受信フォルダーを作成していたはずが、バックアップを転送して復元してみたところ、見事にぐしゃぐしゃになっていて、一部は二重三重の重複保存、一部はリストのみ残っていて本文が消滅、といった具合。不要メールは毎日削除しているので、残してあるのは大切なものばかり。全部をまさか印刷保存するわけにもいかず、一応はバックアップ機能を利用して、再現可能な状態で保存してあったはずなのですが、研究会や学会のお知らせや、貴重な資料だったはずのマレーシア関連のインフォーマントとのメール交換も、これでおじゃんになってしまいました。今は亡き方々とのメール交換も、これでは意味がありません。2012年1月13日に開始されたダニエル・パイプス先生との大量のメール交換だけは、将来のことを考えて、面倒でも全部印刷して紙媒体の保存にしてありますが、それとて、PDF添付した資料やら、他からの転送メールなどは紙の上に全部が再現できるわけでもなく、困っています。
サンダーバードが好都合だと言われていて、両方使えるようにはしてあるのですが、私にはウィンドウズ・メールの方が慣れていて使いやすかったのが、失敗の元でした。
パソコンの利点は、再現性と検索の早さだったのですが、これではどうしようもありません。
アナログとの併存を試みてきているので、絶望的というわけではないものの、時間のロスにはほとほと嫌になります。
博覧強記で多作の佐藤優氏の場合は、一冊のノートに全てまとめておくのだそうです(佐藤優『人に強くなる極意』青春出版社(2013年10月)pp.192-193)。一年で一冊の分厚いノートに仕事の予定や執筆案など全てを書き込み、年毎に並べておくとも他で読みました。一部の見本を見たことがありますが、失礼ながらも、達筆というよりは書き殴りのような、思考経路が辿れるようなページだったことを思い出します。書斎として都内に4つの場をお持ちの佐藤氏ならばともかく、私など資料の置き場にも困っているので、どうしたものかとは思いますが、アナログの方が時間のロスが実は少ないのです。記憶を辿るにもヒントや手がかりがつかみやすいのです。

2.久しぶりに町内の内科医院へ行ってきました。例年の健康診断の結果、今年は「副脾」と出たので、念のためうかがったのです。
実はこのクリニック、いえ個人開業医院は、計5回しか行ったことのないお医者さんなのですが、私にとっては意義深いのです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080210)。親子二代で、ほとんど内科のお世話になることのない私にとっての密かな「かかりつけ医」を担ってくださっているかのようです。
(1)99年に一度、主人の病気と私の椎間板ヘルニアの相談を兼ねて、日曜日の午後というお休みの時間に、突然、挨拶もなしに玄関ベルを押したところ、まずは奥様が、そして牧師兼お医者さんが出て来られた。今から思えば、何と不躾な、失礼な突然訪問を、と恐縮赤面の至り。一時間ほど、中に入れてくださり、お話をしてくださった。兵庫県香住町のご出身であること、お父様が軍人で戦死されたこと、軍人の遺族に対する恩給で暮らしていたので、敗戦後の学校では差別されたこと、牧師になりたかったが、未亡人のお母様が「どうしても医者になってほしい」と望んだので、まずは医科大学に行き、医学博士号まで取得したこと、牧師になる勉強はアメリカの通信教育で資格を取ったこと、など。この町に来たのは「教会が一つもなかったから」と。「ここはペンテコスタル系ですか?」と尋ねた私に「そうです」と、少し構える風にお答えになられた。ただ、最後には、せっかく来たのだから、と主人と私のために病が癒やされるよう祈ってくださった。そのお陰で、私の腰痛はその後、一切再発せず完治。主人の場合は、特定疾患の性質上、無理だが、その代わり、何とか今まで勤務が続けられていることは幸いだ。
(2)次にお目にかかったのは2007年5月のことで、その際には町内の健康診断の結果、「要医師指導」と出たので、(内科ならあの先生だ)と迷わず即断。健康診断の結果そのものは異常なく、問題なしだったが、まだ昔懐かしい医院だったことと、他に患者さんがあまりいなかった時期だったこともあり、少しお話させていただいた。イスラエルで同年3月にお世話になったガイドさんと親しく、大阪に来られる時には、先生の引退後に居住される予定の家に宿泊されるほどの仲だとのこと。午前中のみ診察をする信念に感動していたら、教会牧師との兼業は大変で、維持するためにそのようにしている、とのお話だった。その頃、既に毎日のように読んでいたブログでは、かなり早朝から規則正しく日課をこなし、ガン治療の試みとしての独自の食事療法をご自分を実験台にして記録し、全く前向きで積極的で力の漲るキリスト教に関する随想だったのに、実のところ「教会はそれほど成長していない」と率直におっしゃった。
(3)そして三度目の面会は昨日。診察時間は午前のみ。風邪などが流行っているだろうから、特に何ら異状を感じていない私が迷惑にならないようにと、ぎりぎり直前に飛び込んだのだが、快く受け入れてくださった。健康診断の結果をお見せしたところ、「副脾」について自分はわからないが、息子ならわかるだろう、とのこと。相変わらず手書きで丁寧にカルテを書かれていた。それで「また出直してきます」と早々に引き上げたものの、あれから早くも7年。お目にかかって感じたのは、実に穏やかそうな、品よくお歳を重ねていらっしゃる姿だった。相変わらず、独自の食事療法をご自分に課していらっしゃるのだろうか、それとも、定年以降も人生目標を掲げて必要とされる生き方を続けていらっしゃるからだろうか。それに、待合室にはもう教会週報が置かれていなかったものの、コーナーの本棚には、大勢の人々に長年読み継がれてカバーがぼろぼろになった、1970年に出版されたという先生の著になるキリスト教説教集のような小冊子が遠慮がちに置かれていた。若き日の先生のお写真付き。キリリとしたハンサムな紳士で、当時の日本社会としては医学博士で単立教会の牧師となれば、相当に目立つ存在だったのではと思った。説教集をパラパラとめくってみると、魂の故郷に戻ったような感覚で、私が昔好んで読んでいた本とよく似た印象を受けた。内容は、極めて日本風。つまり、神学部でやっているような、ドイツが、アメリカが、という西洋直輸入ではないところが、今から思えばさすがだと思わされた。
(4)二代目医師でいらっしゃる「息子」さんとは、2010年1月20日にお目にかかっている。その時の様子はブログにも記した(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100121)。無教会の友人に知らせたところ、大変だとは思うが、牧師が信徒の献金のみに頼って教会運営と牧師家庭の維持をするのではなく、本来はパウロのごとく、牧師も手に職を持って生活し、献金は純粋に教会のためだけに用いるのがよいだろう、と賛成してくれたことを思い出す。
(5)そして、その二代目の先生と今日、4年ぶりに再会できた。密やかなるファンのお医者さんとお目にかかりたくても、自分が病気にならなければ医院に押しかけるわけにもいかない。それで、昨日のように診療時間終了の5分前に飛び込んだ。待合室にお一人、その後に来られたご年配の患者さんもいたのだが、私をお二人より先にしてくださった。久しぶりだったのだが、当時よりも白髪が少し増え、少しがっちりされて、前よりもずっと態度や物腰に貫禄が増した印象だった。ノートに貼り付けてある健康診断結果を付箋で探して開いてお見せしたところ、何と先生の方から「何度もすみません」とおっしゃり、私の(4)の問診票カルテまで机に置いてあったのには驚いた。お父様が昨日書かれた続きを、息子さんが書かれていた。「副脾」については、「20人に一人ぐらいの割合で、エコーがきれいに映る時、出てくるもの」「脾臓が古くなると自然分離して現れる無害なもので、放置してよいし、次回からの健康診断では出てこないだろう」と、明快なご説明。しかし、お父様似で、静かで柔らかな物腰で話される。これが、騒々しい今の世の中では一種の凄みさえ感じさせ、(真面目にコツコツと本筋に沿って使命を果たされている一見寡黙なタイプほど、実は何でもお見通しで怖いのかもしれない)と一瞬感じた。最後に、「いつも先生のブログを拝見しています」と申し上げると、昨日も診察室の脇でコンピュータ入力をしていた若い女性(奥様?)と揃って、お二人とも深々と頭を下げられたのには、またもや驚いた。実に腰が低くて丁重なのだ。
というように、わずかな時間の限られた回数の出会いでしかありませんが、町内にこのようなユニークかつ印象深いお医者さんが二代続いてくださることのご縁とありがたみをつくづく思います。お父様も、一度は区切りとしてすっぱり閉鎖されたブログを、しばらく前から新規再開され、息子さんと併せて読ませていただいています。医院を譲った後は、隣の市の高齢者施設で医療奉仕、そして新たに教会開拓と畑仕事をされているとの由。計画的で意志的な人生設計と実践で、一つのモデルだと思います。
実は親子でも今はほとんど頻繁に話したりすることがないそうですが、ブログの趣向は異なるものの、似ているのが細やかで幅広い観察と趣味、そして日々の生活を大切にされる姿勢。写真付き文章は、息子さんの方が文系風で凝ったもの。でも、自己規制が厳しいようで、簡潔に重厚なメッセージを発信されています。例えば、随分前のブログには、診察の一連の流れを茶道のお点前になぞらえて、「よいお点前でした」と患者さんに言ってもらえるような、患者主体の無駄のないスムーズな診療を心がけたいなどと、もの凄いことをあっさり書かれていました。
それぞれ、京都や滋賀の方にお住まいのようですが、5人だったか他のご兄弟も、それぞれに札幌で眼科医、イタリア留学で京大博士号取得の方、イスラエルに行かれた方などなど、大家族でも才能豊かにご立派に成長された方ばかりで、改めて凄い力量だと思わされました。99年にお目にかかった頃には、大学の風潮に私もすっかり染まっていたことと、三十代の奢りもあり、どこかで(でも...)と思っていたところがあります。しかしながら、父を亡くし、主人との比較的単調な生活が続いた今となっては、(やはり昔の軍人家庭は相当だったんだ)と改めて感慨深く教えられるところが多いのです。
例えば、町内にJRの駅が新設されることになった何年か前、主婦系の町会議員はとにかく「町内には他にもっとお金をかけるべきところがある」「もう一つ駅を増やすなんてとんでもない」「自然景観が損なわれる」の一点張りで断固反対だったのに対して、お父様のブログでは「これで医院や教会に通うのも楽になり、町の経済も活性化するだろう」と、将来を見据えた意見を述べられていました。今思えば確かに、社民党系の主婦議員よりも開業医の先生の見立ての方が正解だったとわかります。私にとっても、便利な駅だからです。
今、安倍内閣によって保守派の風潮が勢いを盛り返しています。改憲運動しかり、靖国参拝問題しかり、原発問題しかり、中国や韓国などとの外交関係しかり、です。過去二十数年に及んだ滞在とリサーチ経験から、東南アジア、特にマラヤ・マレーシアに関しては、戦時中の日本軍の行為に対する右派見解に全面賛成はし難いものの、このような軍人家庭に育った保守派クリスチャンのお医者さんの生き様に触れさせていただくことで、何か自分にとって永遠にその機が失われてしまった貴重な姿勢と実践を教えられているような気がしてなりません。
何よりも、昨日の午後は、10冊以上になった「健康ノート」から半分取り出して、上記医院の思い出を手繰り寄せた次第です。パソコン入力ならば、検索が早い代わりに、字体などから当時の心理状態さえ読み取ることは不可能です。案外に忘れていた細かな事実も書き込んであって、我ながら感心してしまいました。だから、アナログとデジタルの併用が一番いいのです。