ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

いわさきちひろの美術館と本

今月中旬には、穂高へ一泊二日の小旅行へ出かけました。こういう休暇には、新幹線など使わず、とろとろと鈍行のJRを使って、途中下車したり、本を読んだり、居眠りしたり、おしゃべりしたり、と気儘に過ごすのが私流です。

安曇野では、ホテルが上等で食事もサービスもとても堪能できました。残念だったのは、温泉が今ひとつだったこと。場所が狭く、脱衣場などもあまり手入れされていない感じでした。比べてしまうのが、昨年泊まった南木曾の温泉ホテル。あまりにも素晴らしい景観で見事な温泉を、二種類も楽しめました。
もう一つは、松本城へも訪れる予定だったのが、時間切れで今回は見送ることになったことです。安曇野いわさきちひろ美術館へ行ったからです。地理的にもホテルからは距離がありましたが、タクシーを使うには高額過ぎ、マイクロバスと電車で行くには待ち時間と接続状況に問題があり、というわけで、犠牲になったのが松本城
地図を見る限り、この辺りは、やたらと美術館が多い地域なのですが、どこへ行くにしても、大阪や名古屋から見れば、車なしには交通の便が悪いように思えます。幸い、行きも帰りも、中高年のご夫婦連れとタクシーの相乗りが可能となり、費用の点でも助かりました。
遠方に位置した「いわさきちひろ美術館」を選んだ理由。夏休みとかけて、宿題の読書感想文ととく。そのココロは、いわさきちひろ。…なんて、全然掛詞にもなっていないですね!
小学生の頃の夏休みで、今思い出しても気が重くなるのは、読書感想文と自由研究。その他の、科目の練習問題や復習ノートなどは好きだったのですが、とにかく、この二つは、思い切って自由に伸び伸びと取り組んだ試しがなく、せっつかれて仕方なく、締め切りに間に合わせるべく、形だけは仕上げたというのが実情です。
「自由に」と言われても、「評価」という条件がつくならば、こっそりと親の手も入ってくるし、子どもの自発性というより、親の見栄競争という側面も含まれていたのではないでしょうか。(そういう話は、数年前にも隣の市で聞きました。「子どもの夏休みの宿題は、親の課題だ」と。あな、恐ろしや!)
ともかく、課題図書なるものが指定され、表紙には「文部省推薦図書」とか「○○賞受賞図書」とか「読書感想文コンクール課題図書」などと記された金色や銀色の丸いシールが貼ってある絵本や児童書をじぃっと机の前で眺めながら、毎日が本当に苦痛でした。早く東海大地震が発生してくれないかなあ、などと真剣に思ったものです。
感想文提出ともなれば、図書館で借りてくるのではなく、確か、学校からもらってきた本のリストを見て、親が本屋さんで選んだ本を使ったかと思います。(それにしても、いつどこで購入したのだろうか?)コピー機もなかった頃で、とにかく、本というものは、「正しいこと、間違っていないこと」が書かれているのだと、刷り込まされていたような記憶があります。今なら、とんでもないことだと思いますが、どうやら、そういう風に、親も先生も言っていたのではないでしょうか?(今でも覚えているのが、「先生の言うことは正しい」「親の言うことに間違いはない」という叱責。こればかりは、一体どこからそんなべらぼうな自信が出てくるのか、とても不思議です。)
と、話は逸れてしまいましたが、「いわさきちひろ」という名前を知ったのは、この「読書感想文」がきっかけ。実のところ、夏休みの読書感想文では、『お月さんももいろ』の文で「松谷みよ子」、冬休みの読書感想文では『ゆきごんのおくりもの』の挿絵で「いわさきちひろ」とインプットされています。(松谷みよ子氏については、2008年8月18日付「ユーリの部屋」を参照のこと)
なぜ、読書感想文が苦手だったのか。これについては、生徒側の視点として、今から考えれば深刻な問題が含有されていると思います。つまり、普段の授業では、漢字の読み方と書き取り、新出単語の意味調べ、教科書の文章の音読、指示語の意味内容の把握、文法、段落ごとのあら筋まとめ、などの基礎項目が並び、引き続いて、教科書の項目末尾に添えられている問題を中途半端に考える(大抵は時間切れで、先生の方もすっ飛ばしていたような記憶有)、宿題には学習ドリルなどで「次の中から正しいものを一つ選びなさい」などの問題を解く、そして定期テスト、学力テストが続く...。このような課程で、長期休暇になると、いきなり「読書感想文を書きなさい」となるのですから、いったい、そもそも、なぜ感想文なるものを書かなければならないのか、やり方の説明もありませんでした。案外、無茶な話だったのでは?
そうはいっても、実を言えば、学校での評価は悪くなかったのです。字をなるべくきれいに見えるように一生懸命書いていたからかもしれません。宿題ともなれば、広告の裏に文章らしきものを書いて、台所で家事をしている母のところへ行き、声に出して読み上げ、辛辣なコメント付きで書き直しを繰り返す、という作業を強制させられていたからです。これが一番厭でした。「だめ、だめ」の一点張り。ほめられた試しなんてありません。最後には、「こういう風に書きなさい」と創作文の挿入まで求められ、まるで私の感想ではなく、母の感想文に仕上がっていたんです。もう、連名にしなければ嘘だと思ったぐらい…。
例えば、『ゆきごんのおくりもの』。正直なところ、学校指定の本というものは、何がどのようにおもしろいのか、どうしてこれが指定図書なのか、皆目見当がつきませんでした。ぼんやり表紙の金色シールを眺めているうちに、一日が過ぎ、(明日はどうしよう)と思って眠りにつく。翌日になると、「読書感想文は?」てな調子で、改めて本のページをめくり直す。まったく真っ暗な気持ちでした。結局のところ、「つよいゆきごん、やさしいゆきごん、わたしもゆきごんのようになりたい」と、書かせられて、やっと提出の形は整ったことだけは覚えています。でも、(私は女の子。ゆきごんなんかになりたくないよぉ!)というのが本音でした。
一つだけ書きたくて書けなかったことで覚えているのは、(みきおくんのおかあさんって、やさしそうだなぁ。いいなあ、うらやましいなぁ)。だって、いわさきちひろさんの、ふんわかパステル調の母親像なんですから。
とにかく、これじゃあ、読書感想文どころではありません。そもそも、『ゆきごんのおくりもの』の基調メッセージは、そんなところにはないからです。

今の時代風潮から考えると、読書感想文の課題図書、特に絵本や児童文学の選定から、当時の学校教育の在り方がいろいろと見えてきます。恐らくは、進歩的で科学的で現代的で、人類の明るい未来を保証するという左翼思想に共鳴していた学校の先生達が、今以上に主導権を握っていたのではなかったでしょうか。だからこそ、学校で薦められた本で読んだ内容をそのまま実践しようとすると、どこか限界を感じてしまうこともしばしば、という…。反戦・平和思想は子どもに必要だとは思いますが、登場人物の設定が、どこか人工的というのか、家族や親戚などの血筋では見当たらなかったというのか…。とにかく、ソビエトのピオネールのお話なども、あまりにも明るく描かれていて、(どうして私の置かれた状況とこんなにも違うのか)と不思議に思っていました。
特に高校に入ると、そういう左翼思想に敏感な級友がいて、あの先生は日教組だとか、あれはアカ思想だとか、すぐに言い当てるのが新鮮でもありました。一方、大学に入ると、これがまた文系の特徴なのか、マルクス主義的なんとか、という講義も目立ち、図書館で読む本にも、一部、そのような影響下にあった面が否めなかったとは思います。

というわけで、小学校低学年で導入されたいわさきちひろさん。(漢字では「岩崎知弘」と綴るのだそうですが、課題図書の頃、名前からは男性かとも思っていました。ひらがなにして正解でした。そういえば、故石井桃子氏も「いしいももこ」と表示することもありましたね。)何かのきっかけで、物心ついた頃には、既にガンでお亡くなりになっていたことを知っていました(1974年)。ただ、高校の頃、共産党員だったということを新聞か何かで知り、ちょっと驚いたと同時に、あの絵本の背景は、そういうことだったのか、と妙に納得したりもしました。それより意外だったのは、想像以上に、若々しくかわいらしい童顔の方だったこと。ふんわかやさしい画風と愛らしい顔立ちと共産党員という三つ巴が、私の中で直結するには多少時間がかかったという意味です。児童書は、例えば、故いぬいとみこ氏あるいは神沢利子さんのようないかにも理知的な風貌の方が書くものだという思い込み、先入観があったからでしょうか。

肝心の美術館は、風光明媚で広々と落ち着いた環境で、細やかな工夫が凝らされた楽しい所でした。ちひろさん御愛着のツーピースとハンドバッグまで飾ってあり、時代を感じさせました。年表や絵本や、多数の作品の中から選びぬかれた展示など、いろいろと勉強にもなりました。カフェ・レストランや書籍のお店などでも、スタッフの対応が丁寧で、気持ちよかったです。

時期柄、親子連れが目立ちましたが、東京から来たような女の子達は、いかにも親の手とお金のかかったことが一目でわかる上質のワンピースにきれいに三つ編みにしたリボン頭など、(格差社会とはこのことか)と、普段忘れていた感覚を意図的に取り出させられたような気がしました。同時に、20代ぐらいの男女カップルも多く、意外にも中高年の夫婦連れや親子が目立ちました。訪問ノートなるものを見ると、韓国やカリフォルニアからも来た人がいたようです。

生い立ちを示す品々を眺めていた若い女性達が、「もともとお育ちが違うのねえ」とつぶやいていました。あの世代(1918年生まれ)の共産党員と言えば、社会の矛盾に憤りを覚えて、懸命に刻苦勉励して知識階層に上り詰めたインテリ・タイプか、貧しい暮らしを強いられた労働者階層が中心というイメージを勝手に持っていたのですが、どうやら、書や絵を習ったり、家にピアノがあってクラシック音楽を楽しんだりするなど、当時としてはかなり教養に恵まれた家庭のお嬢さんなのです。だからこそ、あのような愛らしさ一辺倒のようなふんわかした子どもイメージの水彩画が多く生み出されたのでしょう。あの絵を描くにも相当の技術が必要とされるようですが、油絵よりは水彩画の方が向いていたのではないか、と素人ながら感じました。そして、パステル風の水彩作品は、現役で活躍中の黒柳徹子氏や日野原重明氏が著作で引用されているように、現在でも決して古びず、いきいきと生きていると思います。一度見たら忘れられず、印象づけられることは確かです。つまり、時代を感じさせない普遍性が作品に含まれていたということでしょう。

今回初めて知った事実としては、20歳の時、親の勧めで、婿養子としてお見合い結婚した相手がどうしても気に入らす、満州に飛び立ったものの、数ヵ月後の相手の自殺で幕を閉じたという経歴です。年表にも名前は記されていませんでした。もしかしたら、あの愛と幸せに包まれたようなたくさんの想像上の子ども(実際の子どもはあれほど可愛くもない、リアリズムに徹していないという批判もありそうです)の作品群は、生涯かけての一つの供養の意味も込められていたのかもしれません。
また、共産党員になった意図についても、そのような事情があったならば、恐らくは、満州での経験の一種反動としての、反戦平和、民主主義、平等、女性の権利と地位の向上、未来を背負う子どもの尊重、科学的社会主義、といった「自由」で「進歩的」な考え方に惹かれたためではないだろうか、と想像できます。言い換えれば、家のための結婚、女性差別、迷信や因習という古臭い考えの犠牲になった自分と元夫であってみれば、戦時中の疑念や葛藤も相俟って、戦後には、思い切った人生転換を必要としていたのではないでしょうか。

私の場合は、外側から見た共産思想、大学で習ったマルクス主義でしかありません。旧ソ連や東欧での、ヒューマニズムとは程遠い、芸術・スポーツと政治の関係、人権侵害と権力闘争の矛盾、民主主義を唱えながらも全体主義的な抑圧監視体制と相互不信が蔓延していた逆説、マラヤ共産党のゲリラ作戦や人民憲法など、確かに学ぶことは多々ありましたが、全面的な共感からは程遠いものでした。一方で、今から考えると、あの世代の日本共産党員の奮闘(闘争?)のおかげで、それまでにはなかった新しい考え方や見方を知ることができたことは確かですし、一つのとっかかりとして少しは物を考えたり感じたりする経験を持てたとは思います。また、私達が普通に享受している種々の社会制度に関しても、すべてではないにせよ、無意識のうちに、何がしかの恩恵に与っている面もあるのではないか、とも考えます。例えば、制度の立案や施行は、仮に非共産系の専門家であったとしても、そこに至るまでの道程に、共産主義ないしは社会主義の主張が契機を与えているという部分はあるはずです。
ところで、いわさきちひろさんは、児童書の性格からか、共産党出版系以外に、キリスト教系の出版社にも作品がありました。旧ソ連デンマークなどへも海外出張旅行で訪問されたそうですが、1960年代ならば、共産圏も張り切って美しい面を見せていたのか、それとも、無神論のはずの共産主義と、いわゆる「キリスト教ヒューマニズム」(私は少し疑問に思いますが)とが、社会改革面では言葉の上で共通する面を持つと考えられていたのか、気になるところです。

マルクス主義キリスト教の関係については、両者の見分け方、思想の基盤の相違と同時に、ある面では共感できる面を併せ持つこと、マルクス主義が宗教の肩代わりをしている部分があるという示唆は、矢内原忠雄全集や前田護郎選集などから勉強しました。

例によって、旅行の後には経験の裏付けをとろうという習慣に従い、図書館から本を借りてきました。

1.『いわさきちひろの想い出松本善明(著)すばる書房1977年
2.『いわさきちひろ作品集7 詩・エッセイ・日記ほか中谷泰(他編)岩崎書店1980年
3.『思い出のちひろ 二人で歩んだ日々松本善明(著)新日本出版社1988年
4.『ちひろの絵のひみつちひろ美術館(編)講談社2006年)
5.『ちひろ 絵に秘められたもの松本善明(著)新日本出版社2007年

どうやら、再婚相手であった今もご健在の松本善明氏や一人息子さんの猛氏、そしてそのご家族などが、共産党のイメージアップと支持者獲得も兼ねて、いわさきちひろさんの作品紹介を献身的になさっているようです。上記本の1と3と5では、文章や内容に重複が多いことをお含みおきください。
個人的には、2と4に掲載されていた作品などが、美術館で見た展示品を含みつつも、曾野綾子氏との対談や、画法の工夫、新聞記事や投稿文などの新情報が含まれていて、結構おもしろかったです。また、日本共産党の活動の一部が内部から語られているので、(そういう夫婦関係もあるんだな)とか、(あの時期、共産党はそういうことをしていたのか)、(ちょっとそれは今なら時代遅れではないか)などと、別の角度から読めることも事実です。

明日は選挙です。今回、多少はおもしろくなりそうかもしれません。