ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『後世への最大遺物』の妙味

総選挙は、予想通り、少しおもしろい結果となりました。「少し」というのは、動向が不透明だからです。ただし、評判も印象も芳しくないなあと思っていた大臣経験者や大物政治家が、この度、次々と落選したのは、ようやく世論の裁きが力を得たといったところでしょうか。
17選を果たせず落選した海部俊樹元首相については、私のマレーシア任期中、マラヤ大学に颯爽と来られて、「スラマッ・パギ」から始まる短い日本語の演説をされたのを目の前で聴いたことがあります。あの頃は、中曽根康弘氏や江崎玲於奈氏などとも直接お目にかかれて、得難い経験だったと思います。しかし、今回の選挙結果を見ると、思い出は遙か遠くになりにけり。世相は確実に変わったことがわかります。
今日はマレーシアの独立記念日。ですが、例年のお祝いメールは遠慮することにしました。あまり変わり映えしないのと、恐らくはもうすぐ訪問することになるからです(予定は未定)。
ともかく、こういう時期だからこそ、内村鑑三(著)『後世への最大遺物・デンマルク国の話』(岩波文庫 青119-4)を読むことにしました。図書館で借りた版は1991年で59刷と記されていましたが、購入した版では、2008年で84刷とあります。それこそ、「後世への最大遺物」をまさに具現化しているという点で、二重に驚きます。
実のところ、著作名は学生時代から知っていましたが、あまのじゃくのせいか、これまで読むのが躊躇われていました。大上段な構えのタイトルがあまりに立派過ぎて、自分には理解できないのではないか、と引け目を感じていたことと、読むべきものが他にも山積みで、順送りになってしまったことです。とってつけたような理由ですが。
ところが....驚きました。実におもしろいのです。115年前の文章であることから、個々の例証は、現代では時代遅れや不適当なものが多くとも、その精神においては、今でも、そしてこの私でも、実践可能ではないか、と思わず鼓舞されるのです。これまでに、「なまじ、古典をありがたがるものじゃない、今に生きるのだ、情勢は刻々と変化している」と叱責されそうな経験もしましたが、いえいえ、それはモノによるのだということです。
何がおもしろかったか。まずは、キリスト教宣教師や牧師や教派神学などについても、自己の経験から痛烈な批判を堂々としていることが痛快です。でも、それが決して嫌みや毒気を含んだ非難ではなく、私にも思い当たる面が多々あるという点で、共感できることです。また、はっきりと臆せず物を発言されているけれども、ユーモアもあって、器の大きさを感じさせることです。そして、キリスト教一辺倒ではなく、実に広い教養と視野を彷彿とさせます。従って、非常に説得力があるのです。
例えば、次のような文には、その直言に、思わず笑ってしまうこともあり、うならされることもあり、です。

・そして彼らの内のある者は早くすでに立派にキリスト教を「卒業」して今は背教者をもって自から任ずる者もあります。またはこの書によって信者になりて、キリスト教的文士となりて、その攻撃の鉾を著者なる私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。(p.9) 
・クリスチャンなどは功名を欲することはなすべからざることである、(中略)それゆえに私の生涯は実に前の生涯より清い生涯になったかも知れませぬ。けれども前のよりはつまらない生涯になった。(p.14)
それで私に金などは要らないというた牧師先生はドウいう人であったかというに、後で聞いてみると、やはりずいぶん金を欲しがっている人だそうです。(p.22)
それでもしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、すなわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵った神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人はドレだけ喜んでこれを読むか知れませぬ。今の人が読むのみならず後世の人も実に喜んで読みます。(pp.51-52)
・アノ雑誌のなかに名論卓説がないからつまらないというのではありません。アノ雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないことを書くからです。青年が学者の真似をして、つまらない議論をアッチからも引き抜き、コッチからも引き抜いて、それを鋏刀と糊とでくッつけたような論文を出すから読まないのです。(p.53)
・私の欲するところと社会の欲するところは、女よりは女のいうようなことを聴きたい、男よりは男のいうようなことを聴きたい、青年よりは青年の思っているとおりのことを聴きたい、老人よりは老人の思っているとおりのことを聴きたい。それが文学です。それゆえにただわれわれの心のままを表白してごらんなさい。ソウしてゆけばいくら文法は間違っておっても、世の中の人が読んでくれる。それがわれわれの遺物です。もし何もすることができなければ、われわれの思うままを書けばよろしいのです。(p.53)
・いろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い文章であって、外の人が評してもまた一番良い文章であるといいます。文学者の秘訣はそこにあります。こういう文学ならばわれわれ誰でも遺すことができる。(p.55)
・われわれが学校さえ卒業すればかならず先生になれるという考えを持ってはならぬ。学校の先生になるということは一種特別の天職だと私は思っております。よい先生というものはかならずしも大学者ではない。(p.57)
・学問ができるよりも学問を青年に伝えることのできる人でなければならない。これを伝えることは一つの技術であります。(p.58)
・誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。(p.61)
・すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。(pp.61-62)
・他の人の行くことを嫌うところへ行け。他の人のいやがることをなせ。(p.74)
・はなはだしきはだいぶこのごろは耶蘇教が世間の評判がよくなったから私も耶蘇教になろう、というようなものがございます。(p.75)
・邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に残すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。(p.77)

最後の文など、(だったら私にも面白いことがたくさんあるではないか)、と目の覚めるような思いです。逆説の発想ですね。何もないから面白くできる、という。
そして、拍手喝采で終わった講演は、次のことばで締めくくられています。

われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというておぼえられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。」(p.80)