ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

思い出は遙か遠くに

大学時代のドイツ語の先生から、研究の集大成としての一冊の本が送られてきました。お年賀状に予告が書かれてあったのですが(参照:2010年1月6日付「ユーリの部屋」)、今年は、私にしては珍しく早く投函したために、「ご本をお待ちしています」などと書いてしまい、ちょうど入れ違いになりました。そのため、昨日は別便として、葉書でお礼状をしたためました。
本の内容は、ハイネについてなのですが、一般に流布している「抒情詩人としてのハイネ」ではなく、「革命詩人としてのハイネ」が研究の主眼だったようです。学生時代、紀要で先生の書かれたものを読んでいて、専門外なのにもかかわらず、失礼ながら、(何やらよくわからないけれど、こういうのが研究と呼べるのかなぁ)などと思ってもいました。論文というよりも、おおざっぱな雑感ないしは思いつきのような印象だったのです。専攻分野だった国文学科のある教授が、「あの人のは、やり方がまずい」とも私におっしゃったことを覚えています。別の卒業生は、「あんなことやってるから、うだつが上がらないんだ」とも酷評していました。
ただ、どういうわけか私は、ドイツ語がとにかく好きで、当時、女性が意欲的に勉強したり仕事を持とうとすることにも理解のありそうな先生、ということだけで、一面、慕っていました。環境上、選択の幅が物理的に限られていたからでもあります。いわゆる左翼的な考え方やマルクス主義的な思想には違和感があったものの、現状を知らないだけに、文章は主張があればいいのかなと思ってしまうのが、社会経験に乏しい若い学生の欠陥。先生の方は、大学生協の活動をしたり、学生自治会の書面に答えていたりしたので、思想的には距離を置かざるを得ませんでした。
それでも、マレーシア赴任が決まった時には、お祝いしてくださったり、「マレーシアに情熱をかけている貴女に敬意を表する」と葉書が来たり、一時帰国の時には、わざわざ時間を割いて、場所は思い出せませんが、かなり落ち着いた料亭風レストランでの食事に招いてくださったりもしました。また、日本語教育の方面で、母校に新学科ができそうだというニュースも教えてくださっていました。そういう点では、卒業生の一人としては気に入っていただけたのだろうと、単純にうれしく思っていました。
今回、本を送っていただいて読み、「思い出は遙か遠くになりにけり」と再確認。
例えばショスタコーヴィチの音楽解釈の変遷について、以前、ある程度の時間をかけて考察してみた経緯からも、それが言えます(参照:2007年8月28日・8月29日・9月9日・9月19日・9月20日・9月21日・9月23日・9月29日・10月3日・10月5日・10月13日付「ユーリの部屋」)。
また、2010年11月下旬から12月下旬にかけてのツィッターhttp://twitter.com/#!/itunalily65)に記録してあるように、たまたまちょうど、DVDで『イル・ポスティー』を見た後、パブロ・ネルーダの本や『文化大革命十年史(上)(中)(下)』や『毛沢東語録』、『共産党宣言』および『共産主義批判の常識』を読んでおいたために、そして、それ以前にも、ミラン・クンデラの作品群を読んだり(参照:2009年3月13日・3月15日・3月19日・3月21日・3月24日・3月26日・3月27日・3月28日・3月29日・4月9日付「ユーリの部屋」および2010年12月7日・12月10日付ツィッター)、松谷みよ子展(2008年8月18日付「ユーリの部屋」)、いわさきちひろ美術館(2009年8月29日付「ユーリの部屋」)を通して自分なりに考えていたので、非常に合点がいったのですが、(ハイネってこんな人だったのね。でも、それだけではなかったのでは?)と複雑な気分。ハイネはいいとしても、例えば、なぜ唐突に小林一茶と比較せねばならないのか、理解に苦しむ文章も掲載されていました。
ちょうど先生の年齢が、私の両親の間に相当するので、世代の上では親子みたいな感じですが、一言で言えば、「あの頃の大学の先生は、お気楽だったんだなぁ」。思想が大事とはいっても、いかなる思想と出会うか、若き日の判断は重要です。よく言われるように、誤った思想やイデオロギーに惑わされて、貴重な数年をふいにしてしまい、人生行路を狂わせてしまうことさえあるからです。
先生は東ドイツのイェーナにも一年留学されていたそうですが、当時は、DDRが、共産圏では最も進んだ豊かな国だと喧伝されていました。人々は純粋で、西側のように露骨な退廃はなく、文化や芸術も尊ばれているとさえ、手紙に書いてきた日本人がいました。ところが、1999年夏に主人とベルリンを旅行したところ、壁が崩壊して10年経っても、東と西の景観の差違は一目瞭然。学生時代から見聞していた、家族間でも密告されるというスパイ制度や、命がけで壁を乗り越えようとする亡命者の絶えない状態のなれの果てが、これでした。「心の壁」が問題視されてもいました(参照:2008年5月6日付「ユーリの部屋」)。

私は、祖父母が父方も母方も岐阜系統です。また、大叔父は信州大学学長でした(参照:2010年7月26日付「ユーリの部屋」)。先生のご出身は岐阜(恵那)であり、信州大学とも関わりをお持ちだったようです。恐らく、何らかの違和感を覚えながらもどこかでご縁が続いたのは、こういう背景からだったのかもしれません。