ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

日中韓を結ぶ漢字文化

1980年代の院生時代、韓国の国費留学生が「韓国語だと思っていたのに、実は日本語由来だった」とがっかりしたように研究発表をしていたのを覚えている。こちらは既に知っているのに、留学生側があたかも新鮮な発見であるかのように発表を続けると、「誠に失礼ですが、一体お国ではどのような国語教育をされているのですか」と問いたくなったことも併せて思い出す。
以下は、昔の上司(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180331)の弟様である。十年以上前だったか、しばらくずっとブログを拝読していたが、あの頃は話題についていくのに必死だった。読書で補わなければと痛感したのは、その頃である。
久しぶりに、最近またブログを再開されたようなので、記念として以下に転載を。昨今流行の嫌韓、嫌中の話題よりも、遥かに建設的なお話である。

萬晩報(http://yorozubp.com/
「中国語になった日本語」


2018年4月26日(水)
萬晩報主宰 伴武澄


いつのことか忘れたが、人民日報から日本で生まれた単語を外したら文章にならないということを聞いたことがある。2009年8月、東京で開催された第6回東京−北京フォーラムで全国政治協商会議外事委員会主任の趙啓正氏爺さんから聞いた日本語に関する興味深い話を開陳した。要約すると次のような話である。


中国で生まれた漢字は日中韓で共有している文化だが、明治時代に日本で急速に発展した。日本人は次々とヨーロッパの知識や概念を漢字で表現するようになった。現在の中国語の単語の多くは明治の日本から導入されたものなのである。


明治期の日本について「西洋に追いつけ」精神で富国強兵にのみ走ったと勘違いしている人が多い。明治初期の実は日本での学問はすべて外国語によってなされていた。お雇い外国人が英語やフランス語の教科書で日本人に西洋の新しい学問を教えていた。日本人の弟子たちが教壇に立つことになってもそもそも教科書が外国語だったから大学での授業はほとんどが外国語だった。


初代の帝国大学法学部長になった穂積陳重が後に『法窓夜話』に書いているエピソードは面白い。「帝大法学部で日本語で授業ができるようになったのは明治18年のことである」と紹介している。英語のConstitutionに当憲法という日本語は、明治6年に蓑作麟祥が「憲法と訳したものだが、当初は「国法」「国制」「国体」「朝綱」などさまざまな訳語が使われていたというのだ。明治という国家は西洋の新しい概念を次々と漢字に表現するという血のにじむ知的努力の集大成の上に成り立っていたことを忘れてはならない。


 「共産主義」も日本生まれ


その成果を一気に取り入れたのが明治後半に中国から日本にやってきた中国人だったのである。趙氏の話に戻る。1910年に中国語に導入された日本生まれの単語を数えた中国の学者がいた。なんと980にも及ぶということだった。「懇談会」「雰囲気」「営業中」などという概念は当時の中国語にはなかった。


社会主義共産党、物理学、幹部、改革、革命、経済などももともとは日本語」。趙氏は「共産主義を日本人は嫌わない方がいい。そもそも日本人がつくった言葉なのだから」と会場を笑わした。


さらに新鮮だったのは「明治期の日本語の漢語の作り方も重要である」との指摘だった。「広範性」「安定性」の「性」は英語の用法を漢語化したものだった。「緑化」「都市化」「自動化」などの「化」もまた日本人が発明したというのだ。当時、「こんな言葉を中国人が使えるのか」という不安もあったが、「近代化のために使わざるを得なかった」。中国の知識人たちは日本で生まれた「漢語」を通じて貪欲に西洋の知識を吸収していったのだ。江戸時代まで漢字は中国の文明を理解するツールだったのが、明治以降には日本で独自の発展をし、その知識が本家に逆流したというのだから面白い。


 先駆けとなった梁啓超の『清議報』


ネットを検索中に探し当てたのが、2006年、新潟大学大学院に留学中の盧守助氏が執筆した「梁啓超の日本観−新語彙と新文体を中心に」(現代社会文化研究No.35(2006年3月))という論文である。盧氏の博士論文のエッセンスともされるもので、その中で梁啓超こそが日本で生まれた「漢語」を多く中国に紹介した先駆けだと指摘している。


梁啓超康有為のもとで戊戌変法に参画し、西太后一派に敗れて日本に亡命する。日本滞在中に日本の知識人と交流を深める一方、日本語訳された西洋の政治・経済、哲学に接した。これらを中国に紹介するため横浜で「清議報」を創刊し、日中が協力したアジア主義を打ち立てる必要性を強調した。梁啓超はもともとは漢末や魏、晋の文章を学んで技巧を好んだとされるが、「日本語」との出会いによって文体が180度変わり、平易を旨とするようになった。「清議報」に次々と日本人がつくった新たな西洋の概念が登場するのである。


和文漢読法』は中国でも多くの読者を得た一般に梁啓超の著作とされる日本語マスター本である。日本語を習得するにはそう難しいことではない。日本人が返り点を補って漢文を読んだ逆の手法で日本語を読めば数ヶ月で日本語を理解できる。明治期の日本語は漢字が多かったため、テニオハをある程度理解すれば用意に(ママ)日本語が読めると紹介している。


和文漢読法』を手にしたわけではないが、蘆氏によると、この本はたった105ページで文法に関しては22ページしかなく、日本語と中国語の相違点と日本語の特徴を簡単に説明しているだけで、そう簡単に日本語が読めたはずはないとしている


明治期における文化について、梁啓超は「日本は維新から30年来、広く世界に知識を求めており訳された有用な書籍は少なくとも数千種類になる。とりわけ政治学、哲学、社会学などに関する書籍が豊富で、いずれも大衆を啓蒙し、国の基礎を強化する当面の急務に関するものである」「将来我が国の学界は、必ず日本の学界と密接な関係を持つ。それゆえに、むしろできるだけ日本の語彙を多く取り入れ、将来日中両国の訳本にすれが生じることを避ける」と述べているそうだ。


中国の知識人は近代化のために西洋の知識を必要と感じていて、西洋の書籍ら(ママ)新しい言葉を取り入れていったが、多くは日本語の訳語を借りたものであった。日本語から取り入れた新しい漢語を用法は、旧来の中国語の構造を一変させた。文語文から口語体へ、つまり白話文の普及である。梁啓超が「清議報」などに書いた文章は白話文の前触れになるものだとされ、後に胡適は「20年来の読書人でほとんど彼の文章の影響を受けなかなかったものはない」と梁啓超の役割を高く評価している。


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(無断転載終)
PS:本日、新品で以下の本が届いた。

Martin Gilbert, "Churchill and the Jews:A Lifelong Friendship", Holt paperbacks, 2007.

故Maritin Gilbert卿に関する過去ブログは、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120608)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130417http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150205)。
チャーチル見解で対軸にあるブキャナン氏については、過去ブログのコメント欄を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180326)。