ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレー語の神の名をめぐる裁判(1)

いつの間にか、日本語版ブログでは、日誌風の生活記録もどき、英語版ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2)では、研究テーマ関連のメディア・レポートの複写集成、という体裁になってしまいました。表現したいことはたくさんあるのですが、ネット上だと自由なようで制約もあり、なかなかといったところです。
さて、今日の話題は、1980年代から延々と続いてきたマレー語における神の名をめぐる論争です。短く終わろうと思います。過去の議論についてご興味のある方は、2007年10月18日・2007年11月1日・2007年12月25日・2008年1月7日・2008年1月8日・2008年4月24日・2008年4月26日・2008年5月5日・2008年9月11日・2008年9月12日付「ユーリの部屋」および、英語版ブログ“Lily's Room”の「記事一覧」から‘term issue',‘Allah'などと入力検索してご覧ください。大量にありますよ。
1980年代からの内部資料を持っている私にとっては、この問題、かなり根深いものです。もう既に、9.11テロ事件前から、発表も何度か続けてきましたし、書いたものもあります。そして、今も資料は収集中です。
裁判結果が昨日、今日と続けざまに出て(参照:2009年2月27日付“Lily's Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20090227)、何も知らない人や、それこそネット情報だけで理解しようとする人にとっては、「これで一件落着」と早合点するかもしれませんが、いえいえ、早速、不満の声がムスリム側の一部から出ています。これも、予想された結果の表れです。
結局のところ、17世紀頃の聖書翻訳者達も、いろいろと考えたのでしょうね。イスラムの神はキリスト教の神とは違うのだ、と佐藤優氏が『文藝春秋』2008年12月号で書いていらしたのを見て、一種の懐かしさというのか、それはSamuel Zwemerの議論と同じじゃないか、と逆戻りするように感じたのですが、そもそも、アメリカのオランダ改革派のZwemerとカルヴァン派だという佐藤優氏とでは、さもありなん、です。ここまではっきり断言できれば、問題は簡単です。我々とあなた方は、そもそも違うんです。違うものは違う風に扱う。だから、神の名も一緒にしないでほしい。こう、すっきりできれば世話ないです。でも、それを通してしまうと、クルアーンのある記述と矛盾することになってしまいます。だから、マレーシアでもグルグルと同じ議論を繰り返しているのです。
どこに、いや、誰に問題があるのか。確かに、一神教には問題が多いでしょう。
数年前、ある会合でのコーヒータイムに、知り合いのイスラエル人の聖書学者も「モノセイズムはプロブレマティックだ」とおっしゃっていました。ただ、私がうなづいていると、同席していたエジプト人の先生が、「どうして?一神教はいいものでしょう?自分はムスリムだけど、ユダヤ教キリスト教も尊重する。もし、尊重しなければ、自分はいいムスリムじゃないってことになりますよ」と反論していたので、またもや議論が最初から出直しって感じでした。そうそう、ここなんですよ。イスラエル人の先生がおっしゃることは、どのレベルで何を指して言われているか私にも想像がつくので、その意味においては、同意できます。ところが、そこに「最終の完結した宗教イスラーム」を信奉するムスリムが入ると、途端に逆戻りしてしまうのです。とはいえ、そのムスリムが悪いというのではありません。結局、だから一神教には問題が多い、という結論の強化なのです。