病院・図書室・実験音楽そして....
昨日は、忙しくも充実した一日でした。
まず、ちょっと早起きして、大学病院に行く主人に同伴。大雨だったので、バスと電車とタクシーを利用。普段通らない道を新たに知るところとなりました。
大学病院では、初めて主治医に面会。いつものことながら、こまごまつけている「健康ノート」を見ながら、主人の主訴に補足説明をさせていただきました。やはり、先日の転倒と怪我は(参照:2009年2月11日付「ユーリの部屋」)、状況を先生の方が何度も聞き直され、さすがは大学病院の教授のご専門だけある、と感動。私もついて行って正解だったと納得。小学校4年生の頃から、分厚い『家庭の医学』を暇さえあれば読みふけるのが趣味だったので(今は、病気も細分化されているのと、他に興味関心が広がったために、さすがにしませんが)、本人は「ま、大丈夫だろう」と軽く考えがちな(願望が主訴にすり替わっている)症状も、私が補って説明しないと、と本能的に思ったわけです。
結局、二つの検査をすることになり、薬の飲み方も変えることになりました。
主人いわく、「先生、いつもと違って緊張してたよ。ユーリのこと、看護師から伝わっているんじゃないか」。
はい、随分前のことですが、患者と患者家族は、病院通い以外は、あたかも家でごろごろテレビでも見て寝ているかのように思われているのではないかと疑ったほど、失礼な電話を若い看護師から受けたことがあるのです。その時は、はっきり言ってやりました。「どうして、そういう大事なことを、昨日の今日じゃあるまいし、今頃おっしゃるんですか。本人じゃないので、私にこんなギリギリの時間に電話で言われても、わかりません」と。
その若い人は、学校を出て資格は持っていても、想像力が欠如していて、基本的な対人関係ができないようで、「ガチャン」と思いっきり電話を切ってきました。早速、病院付「皆様の声」に投書しようかと思ったぐらいです。(以前、私のかかった外科でも、非常に不愉快なことがあり、ノートの記録を見ながら、投書用紙に記入して訴えました。その時には、即座に、看護師長さんらしきしっかりした方が、「これは、ドクターのミスですが、点検を怠った私達のミスでもありました」と謝りに来られ、「投書は、全病院に回っていますから、安心してください」とも言われました。(参照:2007年9月6日付「ユーリの部屋」)
あれだけ大きな病院ともなると、多少ミスも出るでしょうが、ミスそのものが問題だというのではなく、ミスが出た時の対応が失礼だということを怒っているのです。ちなみに、前後しますが、帰りの電車の中で、70前後ぐらいのおじさん達二人が、大きな声で、ここ10年ぐらいの日本では対人関係の崩れが目立つこと、しかし、その現象は韓国でも同様だ、などという話をしていました。うん、納得。
病院を後にし、バスで勤務先へ向かう主人を見送り、私は大雨のため贅沢して再びタクシーに。今度は近くの民博図書室へ久しぶりに出かけるのです。雨さえなければ、もちろん、お散歩ですが、水曜日のために、大きく旋回しての到着。カードではなく現金で払うように言われ、しぶしぶお金を出すと、途端に運転手さんがにっこりして、「図書室?じゃ、職員口まで行ってあげよう」と、メータを止めたまま、入口まで送ってくれました。これには感謝。助かりました。最近、タクシー運転手向けに嫌な事件が続発しているので、自然とむっつり不機嫌になる運転手さんも増えたようなのですが、きちんと現金払いすれば、このように親切な人もいるのです。
図書室は、これまで大抵午後の数時間を使うことが多かったのですが、初めて午前中に来ることができました。これもそれも、主人の病院通いのおかげです。これから、そうしようかな。
調べた資料は、マイクロフィッシュに収められた1920年代と1950年代のマラヤ関連の宣教師達の書簡で、3時間で一箱分の半分を読むことができました。マイクロフィッシュは目が疲れる上、資料が古くて読みにくいものも含まれていて、私には3時間が限度です。
収穫はありました。シェラベアの名前も見つかりましたし、マレー人問題に関する宣教師の見解も新たに把握できました。全部をコピーするわけではないので、自分のテーマ以外は読むだけですが、それも大事な勉強です。タイプ打ちの書簡と手書きのメモ風手紙の両方が含まれていました。
宣教師達は、いつもお金の問題に困っていたこと、特に、ミッション系学校を建設するにも、植民地官僚の誰から許可や資金をもらうかに頭を悩ませていたこと、そして、宣教師とその家族の生活費が、地域や宣教団によって違い、南洋では低く抑えられていたものの、実際には、健康維持や子弟の教育問題のために、お金が非常にかかること、などについて、書簡のやり取りからうかがい知ることができます。
また、おもしろかったのが、ある植民地官僚の悪口です。その官僚は、英国国教会に所属しているのに、宗教的な事業については、まるで無理解であるばかりか、邪魔をしてくることで悪名高いなどと、何通かの書簡に繰り返し書かれていました。ふふっ。思わずにんまり。リサーチの楽しみは、こんなところにもあります。
お昼になったので、用紙に記入し(これが大変時間がかかった。なんせ、書簡ですから、日付と宛名を全部書かなければなりません)、コピー代を支払い、これまた曜日のせいで大周りをして外に出、モノレールの接続が悪かったために随分待たされ、ようやく、日文研へ。途中、バスもかなり迂回しました。あの辺りは、広大な新住宅街になっているのですが、私にとっては不便だということが、よくわかりました。関西に引っ越してきたばかりの頃、どうしてああいう所に住みたいと願っていたのか、今では不思議です。日常の買い物にもとても不便で、京都の大学図書館や大阪の中心街に出るにも時間がかかり、家の維持そのものに何かとお金がかかりそうです。主人の健康問題や現在の世界的大不況を考えると、ローンの返済だけでもノイローゼになっていただろうに、本当に若さと未熟さとは同居しているんですね。人生途上では、何が起こってもまずは大丈夫なように、先を見通す力が大事だと思います。
さて、日文研では、能楽と管弦楽のコラボレーションという企画がありました。正直なところ、無料で開催され、帰りもバスが無料で出たので、行く気になったようなもので、能楽なら能楽だけをしっかりと存分に楽しみたかったという感想です。舞台上では、相当なお歳の方達が能楽を演奏されているように見えるのですが、実際には、私よりもはるかに若い方達で、袖に戻られる時にようやく若い面立ちが判明する、という感じでした。それほど、舞台ではピンとした空気が張りつめ、能楽の演奏中は、その道一筋の訓練の様子がうかがえるわけです。
第二部では、私とほぼ同世代の作曲家の方が、洋楽を組み入れて新曲を作られ、能楽と合わせたのですが、曲そのものや題目はいいとしても、慣れないせいか、どうしても今一つという印象でした。何より、作曲家が舞台上で檀をつい立てのようにして、隠れて手振りの指揮をされていたのです。説明にもあったように、息の合わせ方やリズムの取り方、テンポなどが、洋楽と邦楽とは根本的に違うので、リハーサルでも、合わせが非常に難しかったとのこと。つまり、試作品を実験的に聴かされたってわけですね。我々は被験者か...。それに、コンサートホールではないので、どうも観客の方も、クラシック音楽のような態勢に欠けるようで、これも今一つでした。
能楽者達が若かったのは、ベテラン能楽者なら、こういう新しい試みを嫌がるからではないか、と想像しました。洋楽は外へ外へと拡大し発展していく性質を持つのに対し、邦楽は本質に向かって余計なものを削り取って凝縮して表現するという特徴があり、あえてそれを組み合わせてみよう、という実験だったようです。これはそもそも企画された教授の趣味なのかもしれません。理屈の上では成り立っても、感性として受け止めるには、私にはまだ時間がかかりそうです。
まあ、こんなこともありますが、これも経験です。完成品だけを聴いていたら、わからなかったことだろうと思います。
帰宅すると、あしながおじさまから、冊子と研修のご案内が届いていました。ある教授からは、研究会のお誘いメールもいただきました。こういうお気づかい、とてもうれしいです。