ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

生き延びる力・生き残る秘訣

昨晩、義兄からの電話で、義母がとうとう入院したことを知りました。ここ数年ずっとぐずついていたのに、こちらが何度も言っても、なんだかんだの理由をつけて、適切な治療を遅らせていたので、変な言い方ですが、正直なところ、ほっとしたというところです。義兄も疲れたと言っていました。気の毒な気もしますが、主人も私も、自分達ができる手は尽くしたという思いがあり、後は医師の判断に任せる他ありません。我が家だって、表面的に見れば普通のようでも、主人は進行性難病患者なのですし、日常生活にも不自由していることは事実です。将来だって、安泰とは言えません。私自身、ブログで気楽にやらせていただいている理由は、そうでもしなければ、ストレスがたまる一方、という自衛策でもあります。
三十代の頃には、いろいろ悩み尽くした感じでしたが、出した結論としては、誰でもやはり、自分の人生は自分で責任を持ってたくましく切り開いていかなければ、晩年になって積年の鬱屈が爆発するのだろうということです。義母の場合、田舎で「家柄がいい」と言われて育ったこともあり、娘時代は父親に従順で、それを誇りにしていた節があります。また、親の決めた結婚で、嫁しては夫と姑に仕え、老いては子の言いなり、という感じでした。しかし、私とは世代も環境も受けた教育もまるで違うからでもありますが、これでは、何ら「害」はないものの、一緒にいてもおもしろみがありません。自分が姑との同居で苦労したから、私には遠慮するという方針だったようで、それはそれで有難い面もありますが、お料理やら大阪の町のことやら、いろいろ教えてもらえるのかなあ、と楽しみにしていたのに、結局のところ、何もありませんでした。たまの外食で「何が食べたいですか」と聞いても、「何でもいい。あなた達について行くから」という調子。この世代の日本女性に典型的な処世術として、「自分さえ我慢していれば丸くおさまる」という言葉がありましたが、それも考えものです。今頃になって、「反抗期」が出たのかなあ、なんて主人と話していたのですが...。
そうしてみると、昨日も何枚か届いたお年賀状を見て、いろいろと考えさせられるものがあります。イスラエル旅行でご一緒させていただいた、中学教師を定年退職された女性は、ご近所の大学で、さまざまな講座を楽しく学び、ギリシャやトルコなど、聖書やキリスト教にまつわる旅を続けて充実した日々を送っていらっしゃるようです。二十代の頃の私なら、(自分の楽しみだけ年賀状に並べるのもなあ)と感じていたでしょうが、今の私は、素直に(こういう積極的な生き方の方が励みになるし、周りも安心できる)と思うようになりました。その方は私のブログも見て、「おもしろかった」と書いてくださいました。
その他には、母の高校時代の友人や母方の叔母などが、「くたびれたので年賀状は今年で終わりにします」「体力に自信がなくなってきました」と書いてあり、淋しく思いました。私の小さい頃、一緒に遊んでくれたおばさん達なので、時の流れから致し方ないか、と思う一方で、(相手が嫌がらない限り、最期まで元気に続けたいな)と感じた次第です。
そうはいっても、学部時代の指導教官だった恩師からは、また和歌を添えた筆書きお年賀状が届きました。80歳過ぎてもかくしゃくとされています。できればあやかりたいのですが、和歌どころか、俳句も作れないのだから、まずはそこから始めないと...。
三十前後の頃、ある友人が言いました。「なんだかんだと言っても、ユーリさんは、もともと元気な人だよ。昔からそう思っていたよ」と。自分では、体力もあまりなく、頭も弱くて暗い性格で、悩み多き人生だと思っていたのですが、立ち位置を変えれば、そう見えるのかもしれません。こればかりは、生まれつきということもあるのでしょうか。もしそうだとしたら、誠にありがたいことです。
そういえば、主人も含めた周囲の男性軍からよく注意されていたのが、「人の言うことに敏感に反応して、振り回され過ぎている」ということでした。「それさえ克服できれば、結構いける」のだそうです。じゃ、これからでも、がんばりますっか。
昨日の朝日新聞』投稿が、また興味深いものでした。この路線で紙面つくりが続くといいのですが。ひと頃は、あまりにも弛んだように見える投稿が多過ぎたように思っていましたので。「三方よし」の近江商人の金言は、関西に居住するようになってから具体的に知り、改めて感銘を受けたものです。
「不景気の時こそ、本物の商売をしなければ生き残っていけない」「自分が経験してきたことに磨きをかけて本物にしていく」「自分が信じる商いに精進し、切磋琢磨することが本物への道」と旅館を経営する女性からの訓示。そして、「近年横行する偽物とは無縁の本物の世界だった」「本物が持つ独特の凛とした雰囲気に圧倒された」「本物の信頼関係が築かれていた」「こんな時こそ真の本物が生き残れるチャンスではないか」「本物を見抜く眼力も磨かなくては」という六十代の退職男性のお教え。いずれも、キーワードは「本物」です。
最後に、同じ投稿欄から、次の印象深いお話で〆としたいと思います。

宮崎市 68歳男性
「大学生の時、習い始めたばかりのドイツ語で「聖書」のドイツ語版を読んだことがある。私にも読める!ドイツ語も新鮮だったし、聖書も新鮮だった。その後、聖書に触れることなく四十数年が過ぎた。しかしその間いつも、何かとても大切なものを置き忘れてきたような気がしていた。定年退職になり、学生時代に購入したドイツ語版の聖書を再び取り出した。難しいが面白い。乾いた砂に水が染みこむようにぐいぐいと引き込まれる。もちろん、聖書が説くのは直接には神への信仰だ。私はキリスト教徒ではないので信仰のことは分からない。が、イエス・キリストは非常に魅力的だ。貧しい者、地位のない者、弱い立場にある女性や子どもに向けられるイエスのまなざしは限りなくやさしい。これこそ本物で、ヒューマニズムの原点だと思う。この本物の本、天国に行く前に(?)全部読み終えたいと思う。」

ここでも、キーワードは「本物」でした。この「本物の本」について、マレー語版でさまざまな角度から18年間、調べたり学んだりし続けられたことに、改めて意義を想起させられたような思いです。ありがとうございます!