ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

聖書に翻訳されたマレー語

さて、4月に10日間滞在したアメリカのコネティカット州では(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140520)、マレー語聖書の問題について、文献研究をした。ハートフォード神学校の図書館では、戦前の学究派の英国人聖書翻訳宣教師の大量の手書き・タイプ打ち原稿を9年ぶりに再検討した。その後、イェール大学神学部の図書館では(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110930)、初めて閲覧したオーストラリアやカナダも含めて、戦前戦後の聖書協会発行の冊子を検討した。そして、1970年前後の主にメソディスト教会の年次会合の報告書を三箱分、検討して、教会内でのマレー語の使用に関する議論の有無を調べた。
そんなこんなで、たかがマレー語聖書、されどマレー語聖書である。お隣のインドネシア語聖書の状況と比べて、申し訳ないが大変お粗末な実態だ。確かに、マレーシア聖書協会では、最近、またムスリム当局との間で軋轢が再燃焼するまで、麗々しく棚に並べて「もう問題はない」とまで早々と断言していたのだが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20140103)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20140122)、そんなはずがないと内心思っていた私の予想の方が正しかった。これこそが、密やかなる私の自信ないしは誇りである。一応はリサーチャーということなのだから、過去を可能な限り綿密に調査した上で、現状把握と同時に先の見通しまで立てられなければ、研究者とは言えない。これまで私の予測は、本件に関して、ほぼ100発100中、当たっている。むしろ、外れているのは、これまで十年以上、私の発表を聞いて質疑応答で発言をされた偉い先生方であった。
さて、100発100中とはいえ、ハートフォードで9年ぶりに、ほぼ一世紀前の資料と、同じ図書館の同じ机の上で、そっくりそのまま再会できるとまでは予想していなかった。(逆に言えば、資料保存の状態が、9年前と同じで変化がなかったということである。)それに、図書館長のブラックバーン先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140520)と本当に久しぶりにお目にかかれたばかりか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080414)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080416)、なんと娘さんとまで再会できたのである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080428)。ところが、9年前は愛らしいお嬢さんだった娘さんが、どういうわけか、どこか恰幅の良い、堂々たる女性に成長されていて、一瞬、どなたなのか、ブラック先生に指摘されるまでわからなかった。それも、なんとあろうか、10年前に私が招かれて教えていた大学の出身だという日本女性が娘さんの学友で、一緒に図書館(というよりも図書室)に来て勉強していたのである。しかも、その日本女性のご主人も同じ大学出身で、今では立派にハートフォード神学校で教鞭を執られているばかりか、ご熱心なことに、ブラックバーン先生のアラビア語の授業まで受けているということだった。もっとおもしろいことに、ここで学び、修士号を得たシンガポール出身の女性について(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080906)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080907)、「誰もが彼女を知っているのね」と娘さんがつぶやくほど、そこにはいない共通の知り合いを確認し合う時ともなった。また、そのシンガポール人の指導教官がアンマンでしばらく前に突然死したのだが、ブラックバーン先生から事情を伺うことができた。しかし、その病死そのものも、実は以下の「友達」の訳文(http://www.danielpipes.org/11799/)にかかっていた際、私は知ったのである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120809)。
この再会および出会いを巡る背後の細やかな配慮について、ニューヨークで一応のさよなら(bon voyage)をしてから最終日の4月21日にニューアークの空港から帰途につくまで、私の米国滞在を気に掛けてくれていたらしい「友達」にも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140520)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140521)、メールで伝えた。するとすぐに、「あんたのアメリカ滞在ってば、何てそんなに生産的でうまく運んでいるんだろう!恐らくは、アメリカにいる間に、その『狭い世界』とやらをもっと経験するだろうね。でも、その夫なる人が、あんたの仕事まで知っていたなんて、それはすごいことだよね」と、これまた素直に大袈裟に喜んでもらえた。
私にとっては、「アメリカって、イスラエルと同じで、奇跡が起きる興味深い土地柄なんです」。
もう一つの驚きは、結果的に残念に終わった面もあったが、やはりイェール大学神学部の図書室利用の件。「初めてのイェール訪問ですが、図書館利用に際して、私は既にレターを持っているんですよ」と元宣教師だった方の日本とのコネクションが書けた。これまた「さまざまなレベルの経験をしているんだね」などと、おもしろがってもらえた。つまり、日本にいた時とはまた違った、アメリカ発見やらアメリカ体験がメールでお知らせできたのである。余談だが、二度も会って、ご家族へのお土産まで渡した成果で、安心したように打ち解けて「僕の方はね」と。「今××から書いている」「この後○○へ行くよ」「ハートフォードの前を通ったよ」「○○にも会ってお土産渡したら、その場で開けて、すごく喜んでた。あとは、僕達がニューヨークで別れてから、二時間後に欧州に発った長女だけだな」などと、日常のこまごまを書いて寄こしてきた。このやり取りは、帰国した今では、もはや思い出になっている。

ハートフォードでは、9年前に主人と泊まった同じホテルを考えていた。アメリカに慣れている主人とは違って今回は一人のため、新たな冒険は止めて、当時のレシートを貼り付けた「アメリカ・ノート2005年8月」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080710)を取り出して予約を試みた。ところが、こちらは日本で今もまだ、当時のホテルの部屋備え付けのボールペンを使っているというのに、現地では、ホテルそのものが消滅していたことが判明。経営者が変わり、名前を改め、新ホテルとして再出発したらしい。それで正解だった。今度は、自分一人で神学校まで向かったのだが、何と驚いたことに、アメリカのあの辺りは、何もかも変わっていなかったのだ。ホテルは改まったのに、部屋から見える景色は、駐車場の車の並べ方まで9年前と同じ。神学校周辺も、看板が変化した程度で、ほぼ同じ。そして、資料の出し方も、出された資料の中身も、図書館のアシスタントの女性も、その親切さと心配りまで、全く9年前と同じだったのだ!(一部のマイナー・チェンジは、当該資料の番号付きリストの用紙が新たな複写用紙になったことぐらいだった。)

ともかく、一世紀前の聖書翻訳者の歩みを辿る醍醐味は、英領マラヤ時代と現代マレーシア、そして日本の聖書翻訳事業と彼の地との差違や比較にある。

一昨日の夜は、日本聖書協会で新たに予定されている翻訳版の聖書事業懇談会が大阪・梅田の毎日新聞ビル近くで開かれた。二時間ほどの予定が、二十分ぐらい延長するほどの熱心さだった。出席者は若い人がほとんどいなかったが、50名ぐらいの参加者だっただろうか。牧師や教会学校の先生方をお招きしたそうだが、その中で果敢に一人で参加したのが私。それでも、面の皮の厚さは面識のある方が増えることを意味するらしく、受付で早速、しばらくご無沙汰中のキリスト教施設のご年配の方から名前を呼ばれてご挨拶され、素直にうれしかった。また、休憩時間に、年に二回ほどは学会でお会いする先生が直接近づいて来られてご挨拶をいただき、それもほっと安堵の時となった。
まずはプロジェクタで、現代の最新翻訳ソフトを提示され、ご説明を受けた。ヘブライ語本文と、従来出版されてきた各種の日本語訳聖書の該当箇所が一気に画面に並列されるページや、修正箇所と元の文が同じく同時に保存閲覧でき、いつでも簡単に検索できる様子、すべての話し合いや意見などは、ボタン一つで聖書協会世界連盟のオフィスのサーバーに送信され、全部記録されていること、つまり、簡便さ、迅速さ、公正透明性の確保、記録保存の確実性および大量データ保存の可能性が現実に目に見えるようになっていたのだった。これが、ハイテク時代の、極めて能率の良い、きれいな作業としての聖書翻訳事業なのだ。
この翻訳ソフトや聖書ビジュアル版などは、さすがに自宅にはないものの、存在そのものはかなり前から知っていた。それに、今回、聖書翻訳の歴史を再度、復習する講義を拝聴する機会にも恵まれた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081010)。現在、新訳にかかっている訳者は、リストでは58名とのことで、何と、学会や大学で存じ上げている先生方のお名前を4名は見出した。
昔は、文語訳や共同訳やカトリック訳などの聖書翻訳史を、何冊も本を借り、論文を探してはノートをつくって学んでいた。当然のことながら、ギリシア語やへブル語(この頃は「ヘブライ語」をこのように呼称していたようだ)の単語が出てくるだけでも、緊張が走るような思いがしていた。立派な学者の先生方ばかりが、手作業のようにして翻訳に取り組んでいらっしゃり、おいそれとは批判が許されないような謹厳かつ厳粛な雰囲気を醸し出していた。
ところが今では、バイブル・ソフトや翻訳ソフトで、パソコン一つと机さえあれば、何ともきれいな作業になっている。それに、年の功というより時代の変遷なのか、お年賀状をいただいたり、学会の昼食時にお話させていただいたりしているような「身近な」先生方が、翻訳者名簿に銘記されているのだ。しかしながら、頻繁に集まって喧嘩も含めながら委員会で話し合って少しずつ訳業を進めていった時代は、遙か昔のことになってしまったらしい。58名もいるのに、訳者同士の会合は年に一度あるかないか、だそうだ。その調子だから、聖書もさらに「身近に」なったというより、完成に至るまでの訳業の困難さを思い、うやうやしく畏怖心を抱きながら恐れつつ読む機会まで、失われてしまったような感がしている。それが歳を取るということでもあるのだろうが、昔の、遙か彼方高くを見上げるような思いは、既に手の届かない領域になってしまったようだ。

このコンピューター作業は、実はマレーシア辺りでも採用されているようだが、何よりも、基礎的な背景が全く日本とは違う。こう言っては何だが、土台が薄く、まだぬかるんで固まっていないところへ、いきなり最新技術が持ち込まれて、あたかも大量生産の工場で薄利多売を目指して冊数だけ増やしているような感覚なのだ。それでも、UBSの統計を見れば、聖書協会内部の交錯した人間模様のあれこれは美しく伏せられ、ただ、形に見える部分だけが数字や写真で当然の成果のように提示される。また、現地では、充分な訓練も受けずに、マニュアルに沿った作業をしているだけでも、エアコンの効いたオフィスの部屋でパソコンに向かうだけで「世界の最先端」に触れるため、つい三十年ほど前までは、ほぼ原始的な狩猟生活に近かった人達から、むしろハイテク技術立国で育った日本の外部観察者の私こそが、出遅れたアナログ人間であるかのように扱われることもある。
この逆説を、どのように考えるべきなのか。
日本の場合は、マレーシアなんぞと比べたら、それこそ翻訳者リストの58名から「一緒にしないでほしい」と鋭い目線を投げかけられそうなのだが、私のような者にとっては、やはり「えらい!日本チームは健闘している」と拍手大喝采だ。キリシタン禁制期にも、工夫を凝らして密かに信仰を伝えてきた人々の存在。鎖国時代にも漢訳聖書を入手して読んでいた知識階層の努力と旺盛な知的好奇心。さらには開国後の明治以降、学ぶだけ学んだ後は、早々と西洋宣教師に依存せず、すみやかに自力で外国語ないしは原語から訳し始めようとした先達の尽力。もっと素晴らしいことには、聖書がひとたび出版されるや否や、読者からの批判やコメントがすぐに寄せられるほど熱心な層が、確実に存在しているのだ。教会に通う人達は少なくても、文語訳も含めて、今でも幅広く読み継がれているのが、日本語の聖書だ。非キリスト教圏として、これは本当にすごいことだ。女子力ならぬ、文化力だ。
「文化力」については、実は上記の元宣教師からも「友達」からも、「日本の文化は素晴らしい」「日本の文化を賞讃している」と大真面目に言われた。有り体に言えば、それほど西洋の没落ないしはアメリカの国力の低下ということの反映でもあろう。ただ、実のところ、豊富な海外経験と比べた後の、個人的な率直な感触らしいのだ。「え?何が素晴らしいんですか?まだまだ私達、駄目なとこ、いっぱいあります」「これは当たり前過ぎて、素晴らしくも何ともありません」と戸惑う私に、「だって、車はやっぱりトヨタですよね?」と余裕たっぷりに自慢げに乗せてくれた宣教師の先生。「日本は住みやすいところです」「子ども達は三人とも、外見はアメリカ人でも、日本の学校で教育を受けましたから、中身は日本人...」と、その奥様。「おもしろいね、日本人って。そんなにいろいろと細かいとこまできちんと考えているの?」「あんたは、他の誰もしないような方法で、僕の書いたものを理解しようとし、人々に伝えようとしているんだよ」と、囁くように顔を寄せてきた「友達」。
聖書懇談会に話を戻そう。提言用に葉書が配布されていたのだが、休憩時間に書くと、箱がさりげなく素早く回ってきて、後半で一枚ずつ、実に機能的にテキパキと無駄なく読み上げられ、総主事が的確に簡潔に回答された。何もかもが、まるで、密かに積み重ねてきた予行演習を本番で実践しているかのように、能率的で大変に気持ちが良かった。カトリックの人達は、典礼で用いられる以上、「美しい日本語を」という要望が強いことに改めて気づかされた。また、ユダヤ教の学者との協働の可能性を問うた提言もあった。注を入れてはどうか、などの質問も含まれていた。
私はと言えば、「日本社会の活力の低迷、若者の学力低下が著しいが、『読みやすく』『わかりやすく』を念頭に置き過ぎる余り、水準を落とすことのないよう望む」と書いた部分が読み上げられた。これに関しては、「想定読者としては義務教育を受けた者(中卒程度)」が規定されているようで、漢字にルビをふるか、語彙を広げるか、簡潔化へ向かうのか、基準としては「美しい日本語を」目指す、ということらしい。
私が好きな訳は、やはり何と言っても文語訳。あの荘重さはたまらない。ただ、カトリック版も複数持っているし、プロテスタント版もそれ以上に。ヘブライ語ギリシア語も含めて、外国語版は、英語複数、ドイツ語複数(ルター訳と共同訳)、スペイン語複数、フランス語、アラビア語インドネシア語複数、マレー語複数(分冊も含む)、ババ・マレー語(新約)、イラルトゥ語分冊(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080314)、イバン語、中国語が自宅の本棚に並べてある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100113)。ドイツ語で書かれたギリシアコンコルダンスなど、参考書も何冊か持っている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090624)。毎日の日課に、各種言語訳を段落毎に音読する日々を何年か送っていたが、それだけで午前の勉強が終わってしまうので、気になってはいるが、しばらくご無沙汰だ。

1990年4月に政府プログラムでマレーシアに派遣されたことをきっかけに、手書きで聖書をコツコツと下訳していた時代を研究してきた。手探りのために手間がかかり、現地の人達の理解不足や誤解があったり、それ以上に、日本国内に指導教官が見つからないばかりに変な質問で気落ちさせられたりして(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140326)、長年、何かと不愉快なことも少なくはなかった。だが、押しつけられる妙なプレッシャー下で無理な競争を強いられている時代にあって、これは、やはり恵まれた幸せな研究テーマなのであろう。そのおかげで、イスラーム理解や壮大な古代からの世界史理解が、複層的に立体的に、確実に自分の血肉となってきた。現地経験とも合わせて、日本国内では、それほどひけを取らないぐらいの内的蓄積はできたのではないだろうかと、密かに自負している。

どうもマレーシアやシンガポールでは、マレー語の聖書を調べているというだけで、「あいつ、英語話せるのか?」「まだやっているのか?」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080805)「なんでマレー語なんて、研究する価値があるんだ?」「頭の中も単純なんじゃないか?」「東京にも泊まれないほど、貧乏な奴なんじゃないか?」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130209)「ど田舎から出てきた奴なんじゃないか?」など、ひそひそと無能さを推測されているかのような雰囲気を感じる。もちろん、無知のなせる業で、静かに黙殺すればよいだけなのだが、24年間も単独で続けていると、さすがに影響を撥ね付けることもできない。すっかりしぼんだ一種卑屈な気持ちを引きずっていたのだが、そのために、「友達」を時々びっくりさせる珍問答をしてしまっているらしい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)。
ところが、聖書の新訳の懇談会の帰り道に、ふと梅田の夜を見上げたところ、モダンな高層ビルがにょきにょき屹立している中を歩いている自分に気づいた。このデザインは、比べたら失礼だが、ニューヨーク市よりも品があって洗練されている、と思った。それに、梅田は時々来ているはずなのに、いつの間にこんな高いビルが、と思うほどだった。地震の専門家によれば、危険な場に建てたものらしいが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140518)、現代のハイテクは、危険をモノともせず、それを凌駕せんとするだけの壮大な自信を備えているようだ。ともかく、ここは外国ではなく、紛れもない私の国の一都市なのだ、と改めて思った。超一流の陰に存する醜い猥雑性、各人種の体臭集積から来るごちゃごちゃを見事に排した梅田の道の広さと清潔さに、ニューヨーク市にはない日本の文化力の総体が垣間見えると思った(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)。
そこにこそ、借り物ではない内的自信と誇りを見出すべきなのだ。マレーシア・シンガポールアメリカとをマレー語聖書を巡って往来した日々を思い、静かな勇気がこんこんと湧いてきた。