ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

本質を見抜く力と相性の問題

昨日は、主人が勤務先で受験した英語試験の結果を眺めながら、二人でいろいろと語り合いました。私から見れば、成績は決して悪くはありません。というより、これと同じ成績でMIT留学が決まったのです。けれども、主人はとても悔しがっていました。「アメリカ留学前と今とで実力が同じってことは、進歩がないってことじゃないか」。
まあ、病気のことも大きいですし、そのハンディキャップを考えれば、たいしたものです。筆記試験はよかったのですが、インタビュー試験では、「もっと積極的になればいいのに」などとコメントされていて、これは相性の問題でもあると思いました。
私の経験では、第三外国語であるスペイン語の二次試験の会話で思ったのは、あまり真面目に本当のことを喋っては逆効果だということです。例えば、「スペイン語は趣味に過ぎず、本来の関心事はマレーシアなんです。イスラームキリスト教の関係などについて勉強しています」と言ったら、スペイン人の男性試験官が途端に嫌そうな顔をして、その時は不合格になってしまいました。ところが、次に二次試験を受けた時には、「ええ、もちろんスペインに行ったことがあります。マドリードプラド美術館の絵画は素晴らしいと思いましたし、ゴヤの黒の時代なんて、ちょっと不気味で興味深かったです。美術館の食堂で食べたパエリャもおいしかったです。町中では、生ハムのサラダも楽しみました。トレドにも電車で行ったんですが、大聖堂が素晴らしかったです。はい、また行きたいと思っています」などと、試験官の喜びそうな話題を自分から出して、友達感覚で喋っていったら、すんなりと合格になりました。
主人は、試験の時に趣味を聞かれて、ちょうど五嶋みどりさんの演奏会の翌日だったので、「クラシック音楽を聴くこと」と言い、「みどりさんは、バーンスタイン指揮のコンサートで、弦が二回も切れたのに、落ち着いて楽器を取り換え、ソリストを無事務め上げました。まだ少女だったのにです」などと喋ったそうですけれど、試験官が「自分はクラシック音楽を聴かないし、そのみどりっていうヴァイオリニストのことも、知らない」と応答したそうです。びっくりしましたけれど、私のスペイン語会話試験と同じで、もしかしたら、それがマイナスにつながったのかもしれませんよね?
でも、この主人の負けず魂というのか向上心は、私も是非見習いたいものだと思います。今年はスケジュールに余裕を持たせたくて、資格試験をやめているのですが、まだ合格したい試験が幾つかあるのです。英語も国連英検が特A級という目触りなのが残っていますし、ドイツ語だってスペイン語だって、まだまだ...。
昨日、読書量が足りないのではないかと書いたら、主人が「あのねぇ、世の中の人はそこまで暇じゃないの。生活のために一生懸命働いているから、時間が取れない人も多いの。どうして、そんなに狭いサークルの基準を鵜呑みにするかなあ」と注意されてしまいました。「それに、本ばかり読んでていても、結構、大学の先生にだって、変な思想の人も多いじゃないか。その先生達の生活を支えている人達の方が、もっと大事なんじゃないか」と。それはわかっているんですけどねぇ。どうも自分には不足が多過ぎるのではないかという一種の強迫観念から逃れられなくて...。
例えば、随分前のことですが、研究会で「マレーシア一筋なんですね。もっと視野を広く持たないといけないんじゃないですか」と指摘されたことがあります。そう言われると、まじめに反省して、「は、そうですね。私、偏りがあるんで...」と素直に返事するのが私なんです。でも主人に言わせると、「人に対して視野が狭いと言ってくる人の方がおかしいと、どうして考えないんだ?別にマレーシア一筋じゃないじゃないか。ドイツ語もスペイン語クラシック音楽だってやっているのに、研究発表だけで視野が狭いなんて決めつけてくる方が変だ」「そういう、無責任な他人のコメントに振り回されてるから、何もできないんだ」とのこと。

それにしても、読書や勉強ができるというのは、本当にありがたい環境です。後は、それをどのように社会に還元し、活かしていくかが問題です。

さて、今朝の郵便には、偶然というには不思議な品々が含まれていました。
まずは"International Bulletin of Missionary Research゛最新号です。これには、今年4月に進行性神経難病で亡くなったDavid Kerr教授の追悼記事が掲載されています(Vol.32, No.3, July 2008, pp.126-7)。この冊子は、「神学的にはかなり保守的」だと教えられました(参照:2007年10月20日付「ユーリの部屋」)。そうは言っても、ムスリム・クリスチャン関係の第一人者のお一人であるDavid Kerr教授のことも、きちんと評価されているのです(David Kerr教授については、2008年6月25日付「ユーリの部屋」を参照のこと)。つまり、私が言いたいのは、こういうことです。日本の一部神学者の中には、「自分はリベラルだからイスラームとの関係に問題はないが、原理主義的あるいは福音派のクリスチャンが問題だ」とキリスト教内部の対立をわざわざ煽りたてるかのような論争を公表するケースがあって、いささかはた迷惑なのですけれども、神学的立場だけが他宗教との関係を決定するのではなく、その人の持つ人間的包容力や仕事の実績(それは、論文数や講演数ではない)が重要なのではないかということです。例えば、David Kerr教授も、最後までキリスト教の真実性を疑うことなく、しかしアラビア語イスラーム学を修められて、ムスリム学生の指導も熱心にされたと評されています。ハートフォード神学校でも教鞭をとられたほどですから、シェラベアの系譜につながる方でもいらっしゃいます。ちなみに、David Kerr教授は、Hugh Goddard教授の指導教官で、長年の精神的支柱でもいらしたそうです(Goddard 2000:vii)。
ということがわかったのも、私が自力でマレーシアの問題を追求してきたからなのですが、もしも、上記の日本人神学者の傘下で、自分まで一緒になって論争を引用して立場を形成したつもりになっていたとしたら、当然の帰結として、イギリスとアメリカにまたがる、この貴重な人脈の流れを見逃すことになっていただろうと思うのです。人生において、およそ師事すべき師を見誤ることほどの損失はないと考えます。

もう一つの郵便物は、Bat Ye'or氏の著作で、“The Decline of Eastern Christianity under Islam From Jihad to Dhimmitude:Seventh-Twentieth CenturyFairleigh Dickinson University Press 1996)で、厚さ3センチ弱の大層な本です。注文時には全く知らなかったのですが、裏表紙の書評には故モンゴメリ・ワット教授も参加されています。故ワット教授も、繰り返しになりますが、ハートフォード神学校と深く関わっていらっしゃいました(参照:2008年6月8日・6月11日・6月12日・6月13日・6月14日・6月24日付「ユーリの部屋」)。
Bat Ye'or氏については、これら2冊を読めばだいたい充分だろうと思います。最近のアラブとヨーロッパの関係については、表面だけを見過ぎていないかと感じられるので、指摘は一面で適切な点もあるかと思いますが、それ以上、特に深入りする予定はありません。下手をすれば単に対立を煽りたてる危険性に陥るからです。

最後に、マレーシア教会協議会からも月報が届きました。ミャンマー情勢が話題の中心です。