ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

キリスト教に対するイスラーム優越

昨晩から今朝にかけて読んでいたのは、Syed Muhammad Al-Naquib Al-AttasIslam and SecularismNew Crescent Publishing Co. Dehli1984/2002)でした。2004年12月にアメリカのイスラミック・ブック・センターから注文したものです。
巻末の付録に「イスラーム化について:マレー・インドネシア諸島の事例」が出てきますし、この著者のご子息に当たるDr. Syed Ali Tawfik Al-Attasが、マレーシアの国際イスラーム思想文化研究所の所長を務められていることから、入手したわけです。この所長なる方には、2006年11月30日のコンラート・アデナウア財団主催の対話会合で、客席からお目にかかったことがあります。大柄で立派な体格に豊かなあごひげで、滔々と流れるような早口の英語を話す方でした。「現在の問題を解決するには、ムスリムをもっと教育しなければならない」の一点張りで、取りつく島がないとはまさにこのことでしたが、それはともかく、新聞紙上や文献上のお名前だけでなく、実際に風貌に触れる機会があったことは、重要だと思います。
全体をざっと読んでみて感じたことは、かなり西洋のキリスト教思想についても知識があるらしいものの、根本的に西洋やキリスト教との対決姿勢、というよりも非常に軽視した態度が見られるということでした。もっとも、本書には、暴力だとかテロの話は一切出てきません。相変わらず、同じ話や表現がグルグル回って出てくる特徴がありますが、ニーチェフロイトピエール・カルダン、バルト、ブルトマン、ディートリッヒ・ボンヘッファー、ポール・ティリッヒなどの哲学者や神学者の思想に並んで、コックスの「世俗都市」などの紹介もあり、要するに、「西洋は世俗化に反対せず、キリスト教キリスト教でなくなっている」と述べ、「多くのキリスト教神学者や知識人が教会のアバンギャルドを形成し、既に深く背教者が広まっている」(p.10)と観察しているのです。
また、キリスト教の教義に関しても、ギリシャ哲学のtheos、ヘブライのyahweh、西洋形而上学のdeusの混交から来ているために、相互に対立する概念を有し、アウグスティヌスperson概念による三位一体も曖昧さを残しているなどと批判しています(p.18)。
著者の主張は、「イスラームキリスト教に似ていない」(p.20)というもので、「世俗化(secularization)が、その根本を聖書的信仰に有し、福音の果実であるという主張は、歴史的事実として実体がない」(p.25)と断定しています。
また、ムスリムの見解によれば、キリスト教には二種類あり、オリジナルで真正なものと、西洋版とに分けられるそうです。前者はイスラームと一致できるが、後者は三位一体に基づく真の信仰を告白していないというのです。これは、クルアーンの記述に基づくもので、イスラーム発生以前に存在していたのが前者だからという含意もあります(p.26)。(ユーリ注:この分類法は、2005年に日本人ムスリム教授からもうかがいました。問題はしかし、ムスリムがそのようにキリスト教を分けていたとしても、キリスト教内部ではエキュメニズムが進行しているので、あまり意味をなさないという事実です。)
さらに、17世紀にデカルトによって始められた科学革命が導いた世俗化というものは、西洋神学や形而上学におけるギリシャ哲学の誤った適用の結果であり、デカルトは疑いや懐疑への道を開いたのだ、と説明しています(p.28)。18世紀や19世紀には、無神論や不可知論、物質主義や進化論などが起こり、キリスト教は世俗化に抵抗したものの失敗し、それどころか、影響力を持つ現代神学者達が今やクリスチャン達に世俗化に参加するよう促しているという危険さえある、と述べています(p.28)。
さらに、「人間の進化というばかげた理論」「彼らの主張の真実性を拒否する」「イスラームは世俗的ないしは世俗化や世俗主義という概念そのものの適用を絶対に拒否する」(p.31)というおなじみの表現が並んでいます。
「西洋のキリスト教は啓示に基づくとはいうものの、イスラームの観点では、啓示された宗教ではない」「キリスト教が重視する教義である三位一体、受肉/託身、贖罪というものは、すべて文化的産物である。そして、神の霊感を受けた聖なるクルアーンが絶対に拒否するものなのである」(p.33)とも述べているところも、既になじみ深いものです。なぜなら、「最終の完全な啓示としてのイスラーム」(p.34, 36, 37)なのですから。
興味深いのは、「クリスチャンとムスリムは人間であるという点で基本的には同じであり、密接に近似した宗教を互いに信じている点でも同じである」と述べる一方で、「キリスト教イスラームイスラームキリスト教というものは、キリスト教でもイスラームでもないので、混乱させる」(p.51)などと語っている点です。何を言っているのかよくわからず、どこか矛盾しているようにも思われるのですが、ここがイスラーム文献でよく見かける特徴といえば特徴です。また、「我々は、イスラーム化の性質を解放の過程として定義した」(p.53)とも述べている点は、注目すべきです。つまり、イスラーム化によって、魔術的、神秘的、精霊信仰的、民族文化的伝統や世俗化からの解放が見込まれるという考え方なのです。
キリスト教は啓示された法またはシャリーア法を有していない。また、キリスト教は曖昧に表現されたもの以外に宗教の概念について明確なものはない」「人と神をつなぐものとしてのラテン語のreligioから英語の宗教religionが派生したのだというが、これだけでは、人間生活の根本的側面として、あまり情報がない」(p.58)「イスラームの人間は、社会契約というものに束縛されない」(p.83)「聖なる預言者は、聖なるクルアーンの次に、最も優れていて完全な導き手であり、人生の模範である。それゆえに、アイデンティティ危機に悩むこともない」(p.101)とも主張しています。
また、「西洋社会では世代間格差に悩んでいるが、(イスラームでは)その必要がない」(p.101)「今日のムスリム社会の問題は、西洋の文化文明がイスラームに長らく対抗してきたことに基づくのであり、その原因はイスラーム到来以前のキリスト教形成の初期に遡るべきである」(p.106)「コロンブスの新大陸発見やバスコ・ダ・ガマによるインド経由での喜望峰発見は、ムスリム船長の助けによるものであった。ムスリムはすでにその道を知っていたからである」(p.113)「イスラームは世界史を形成するのに優勢な役割を果たした」(p.114)「我々は、イスラームは馬鹿者のための宗教ではないことを忘れてはならない。常にイスラームの知識とイスラーム的世界観をリフレッシュしなければならない。そして、誤った解釈に対抗すべきである」(p.120)と、キリスト教および西洋に対して、自信たっぷりの論調が続きます。
見逃せないのは、既に人口に膾炙した説として、「植民地時代以降、組織的な非イスラーム化が実施されたマレーシアやインドネシア」(p.138)「イスラーム化が西洋植民地主義や文化帝国主義の到来によって邪魔されてきた」(p.138)「元来はアラビア文字であった言語のローマ字化を引き起こした責任のある悪いムスリム指導者達」(p.139)などという見方です。これは、いつも繰り返しているように、マレー半島においては事実とは異なります。むしろ、英国植民地支配者層は、ムスリムの宗教は自治に任せたというのが実態で、すべての地域が非イスラーム化への浸透を招聘したのでもありません。また、世界史的に見れば、ムスリムの方が植民地化や帝国主義化を引き起こした地域も存在しているのですが、それについては言及が一切ありません。
圧巻は、「知識の非西洋化」という最後の章で(pp.146-183)、ここでは、西洋文明によって引き起こされている今日の深刻な人間破壊について冒頭に提示し、混乱と懐疑から平和と正義へ導くイスラームの真の知識について述べています。「人間の性質」「知識の性質」「教育の定義と目的」が要領よくまとめられた後に、「西洋の文化文明についての比較宗教は、イスラーム的観点から、イスラームに対立してきたし、しているし、これからもするであろうものとして、ムスリムに理解させる手段がカリキュラムに組まれなければならない」(p.180)というのです。

以上で、おおざっぱな概説を終わりますが、これらは特に新奇な見方でもなく、ムスリム学者に典型的な考え方だといえます。また、読みながら、(これでは、いくら左派が寛容やら相互理解を主張してみても、西洋vsイスラーム社会の構図は消えないわけだ。イスラーム圏内でもムスリムvs非ムスリムの構図もますます拡大していくだろう)(マレーシアでも日本でも、対話会合で疲労困憊していたのも無理はないなあ)(マレーシアの非ムスリムの昨今の動きは、かなり遅過ぎたけれども、それはそれとして理解はできる)(しかし、このイスラーム復興はいつまで続くのだろうか)などと取りとめもなく感じました。この印象も、常に同じもので、まったく新鮮さがないのですが。
言うまでもなく、このムスリム学者の考え方には、欠点や盲点もないわけではありません。真剣にこちらが受け止めるには、あまりにも「西洋」「キリスト教」を単純化してとらえ過ぎています。深刻なのは、このような論説がマレーシアの学校教育でも浸透していることと、一般人が個人レベルで対抗できるだけの公的空間が著しく狭いことです。そのまま、自信たっぷりに日本に来て、聖書学者や教会の前で「キリスト教は歪曲され、間違っています」とムスリムが主張してみたところで、たぶん誰も真剣には相手にしないだろうに、国が異なれば、それが公的論説として堂々と主導権を握る可能性もあるということです。