ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

以心伝心と一期一会

おとといと昨日は、貴重な会合にお誘いいただき、有意義な時を過ごすことができました。このように正式な大学の会合に招いてくださる懐の深さと、出会いの縁の大切さを感じさせられました。
そして、相互理解には時間がかかり、粘り強さと率直で開かれた態度が大事だということと、主題が同じであったとしても、会合に集うメンバーの顔ぶれによって、雰囲気のみならず、結論まで変わる可能性が大きいことも改めて感じました。
大切なのは、何事も決めつけないこと、過去に囚われないこと、職位職階ではなく、それぞれの持ち味を生かし合うことだと思いました。
実は、主催者の先生から「発言してください」と念を押されていたのですけれども、結局は、沈黙の理解に留まりました。その先生の期待を裏切るようで申し訳なかったとは思いますが、その場に居合わせることに重点を置かせていただいた次第です。もちろん、発言しなければ貢献したことにならないとはわかっているのですが、禅でいうところの沈黙の精神、以心伝心とでもいうのか、むしろ、発言を控えることで理解を示すというあり方もあるのではないかなあ、とその場で感じたのです。アジア的といえばアジア的ですが。

モントリオール大学とソルボンヌ大学からユダヤ系の先生がお二人と、マレーシアの国際高等イスラーム研究機関(IAIS: マレーシア前首相アブドゥラ氏の設立による民間機関)から二人の著名な先生方が来京されました。マレーシアと関わりがあるとのことで、私もお招きいただいたのですが、英語版ブログ‘Lily's Room'(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2)でもたびたび登場されているMohammad Hashim Kamali教授(2007年10月23日・2008年1月4日・10月9日・11月6日・2009年2月24日・4月28日)とOsman Bakar教授(2008年12月19日・2009年2月24日・3月12日)です。
オスマン先生(つい、マレーシア風に「ダトッ」と尊称でお呼びしてしまったのですが、先生は「それは公的な場だけ」と、一応は日本の平等主義的なやり方に合わせてくださったようでした。マレーシアだったら、私のような中途半端な立場の者は、こんな風に気安くお話なんてさせていただけない高位の方なんです)は、同じプロジェクトで以前にも京都に来られたことがあり、2006年11月30日にクアラルンプールの日航ホテルで開かれたコンラート・アデナウア財団主催の「文明の衝突セミナーでも、お目にかかって名刺交換したことがあります(「コンラート・アデナウア財団」に関しては、2007年10月19日・10月23日・11月1日付「ユーリの部屋」参照のこと)。
先生も覚えていらして、会場に入ってくるなり、「前にクアラルンプールでも会ったことあるよね」とにこにこして新しい名刺をくださいました。ちょうど、5月末に提出したばかりの拙稿にオスマン先生のお仕事ぶりを数カ所引用させていただいたばかりだったので、実にタイミングとしてはよかったのですが、肝心の印刷物が遅れているようだったので、ワードで原稿のみお見せいたしました。ちょうどオスマン先生ご自身の発言にも出てきた内容と合致していたことも幸いでした。「ちゃんとマレー語資料も引用しているんだね」と喜んでいただきました。
ただし、日本語で書いたものだったので、本当に申し訳なかったです。主催者の先生からも「英語で書いたんですか?」と尋ねられて、これからは、何でも最初から英語で書かなきゃとますます思いました。
一つ、資料持参で具体的な質問をさせていただこうとは思っていたのですが、試しに休憩時間にお尋ねすると、曖昧に返事をされ避けられたようでした。この種の話は、マレーシア代表として招かれている以上、国際経験の豊富な知識人として、個人的にはわかっているのだけれど、マレー人としてはジレンマを感じていらっしゃるのではないかとも察して、公の質問は避けることにしたのです。こういう時、私もやはりマレーシア経験が19年もあるだけに、染みついた態度があるんだな、と感じました。なんだかんだといっても、マレーシアでマレー人に3年間も教えていたのですし、マレー人の心性は、わかっているつもりなんです。だけど、といったところが難しいですねぇ。
質問内容は、後で触れることにして、カマリ先生について先に言及しましょう。
アフガニスタン生まれのカマリ先生は、マレーシアで長く教えていらしても、生粋のマレー人とは言えません。(ただし、以前も書いたように、マレー人の指導者層には混血の人が多いです。トルコ系とかエジプト系とかアラブ系などは、全く珍しくありません。私のマレー人の教え子の一人も、それこそ上記のセミナー会場のホテルの入り口近くでばったり出会い、「アフガン系女性と結婚して子どもが二人いる」と写真を見せてくれました。)色白で鼻筋の通った実にシャープなお顔立ちです。残念ながら初日でお帰りになりましたが、事前にペーパーを真っ先に送ってくださった講演者でした。がんばって予習してみたものの、こちらにとっては相変わらずの既知の内容で、ぐったり疲れてしまい、(あ〜〜〜)と。イスラーム法学者の話は、どうしてもこうなりがちです、日本でもマレーシアでも。何か新しい話題をこちらは期待しているのですが。
そのためもあってか、会場でカマリ先生が一生懸命話されていても、つい眠そうにしていた参加者も目立っていました。
ただ私としては、ペーパー内容よりも、今年4月22日に、カマリ先生が「(親の改宗に伴う)未成年の子のイスラーム改宗は非イスラーム的だ」と、マレーシアの公の場で断言してくださり、それが大きく写真入りでマレーシアの新聞に掲載されていたのを拝見していたので(参照:‘Lily's Room'(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20090428))、そのことにお礼を表したい気持ちで、じっと先生を見つめていました。別に私がお礼を述べる筋合いは全くないのですが、長年、マレーシアの非ムスリム、特にキリスト教指導者層が最も神経を尖らせていることの一つが、本人の同意なしの未成年のイスラーム改宗問題だったので、マレーシア生まれではないムスリム法学者のカマリ先生が、ここぞという場面で公明正大な態度を示してくださったことが、とてもありがたく思われました。こういうことを公に発言することそのものが、非常にエネルギーを要する社会なんです。立場の異なる外国人の私にもそれがわかるだけに、じっと拝聴することで、感謝を表しました。
落ち着いて話されていた先生ですが、休憩時間にすれ違った時、先生の方から丁重に会釈してくださいました。
ちなみに、ベネディクト16世へのムスリムの公的書簡に名を連ねたマレーシア代表のお一人が、カマリ先生です。これも、英語版ブログの上記日付に記されています(参照:‘Lily's Room'(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20071023))。

ちょっとこの辺りで休憩とします。続きはまた後ほど。

一息入れて、続きを書きます。
今振り返ると、一期一会を生かし切れなかった面もあったかなあ、と思います。主人が、「かえって自由な身分なんだし、これだけ問題意識を持って勉強しているんだから、好きなように喋ってくればいいじゃないか。せっかく招待されたんだし、ごはんも一緒に食べてきたらいいよ。外国から偉い先生を呼ぶのは大変なのに、観客が少なかったら失礼だろう」と言ってくれていました。これは多分、アメリ東海岸で、さまざまな出身地の専門職の人達と仕事をしてきた経験からなのでしょう。ただ、私は大胆なところは大胆なくせに、変なところで気を遣い過ぎてひっくり返るんですね。夕食会も出席としていたのに、もう一人の京大の女性の先生が「帰ります」とおっしゃったので、(え!先生が帰られるなら、私なんて図々し過ぎますよね)なんて考えて、一緒に出てきてしまったのです。こういう対話会合というのは、結構狭い研究者世界の中で、場所を変えて同じ顔ぶれが喋り合うことが多いように感じているので、私の今の立場だと、どうしたらいいんだろう、と。
ところが、翌日、主催の先生から「いいの、いいの」と促され、反省。
一つは、オスマン先生のご経歴をマラヤ/マレーシア史と重ね合わせて考えると、いろいろ思うところがあって、なかなか難しいんです。パハン州の小さな村(カンポン)出身で、王族系の子弟の集う英語で教育を施すエリート校マレー・コレッジ・クアラ・カンサー(MCKK)で学び、ロンドン大学へ。アメリカのテンプル大学で博士号。まさに、マレー・ナショナリズムと英国植民地支配のプラスの面が合体したような進路で、その後のマラヤ大学副学長や国際イスラーム大学での教授職を思えば、あの小さなカンポンから大出世株が出たというマレーの誇りを地でいくタイプの先生なんです。ただし、「イスラームと科学」という主題に関しては、マレー・ムスリム世界の後進性を認めながらも、イスラームの枠内によって問題を解決すべきだというお考えのようで、では、マレーシアの華人やインド系の理数系頭脳流出の問題をどうするのか、については不問のようなのです。
頭脳流出以前に、中等学校でも、理系クラスの上位にはマレー人生徒がいないために、政策上、マレー人を一定数入れたところ、クラスの水準が下がったなどという話は、よく耳にするところです。私の日常経験からも、華人やインド系の方がはしこいというのか、計算はマレー人よりも遙かに速いです。マレー人は芸術や文系科目(宗教)が得意とはいえ、大学の成績も「マレー人は非常に劣っておりました」と日本の名誉教授がはっきりおっしゃったぐらいですから。日系企業でも、マレー人を採用しても、物事の道理がわかっていないままの人が多いと苦情を聞いたのは、遙か昔のこと。
しかし、オスマン先生が言われるように、その克服にはイスラームを適用、となると、これまた実現性が薄いような....。確かに、アッバース朝時代やイスラミック・スペイン時代などには、絢爛たるバグダッド文化やアンダルシア文化が繁栄していたことは歴史的事実ですが、問題は、現代の実際面なのです。ちなみに、私事で恐縮ですが、その昔、主人がアメリカで研究所を立ち上げ、研究員を採用した時には、優秀だったのは中国系とユダヤ系だったと言っておりました。う〜ん。
わかっているだけに、かえって公にあえて質問しにくい事ってありませんか?

「神の名」の問題についてもそうです。オスマン先生は、「私はクリスチャンの‘Allah'使用に対して反対していない。だけど、制約をかける州法を作った人達が反対するから」ということで、この返答は、私、もう聞き飽きているんです。広島にいらっしゃるアラブ系マレー人の先生も、8年ほど前、私の発表を聞くや否や、途端に正座までして丁重になり、「自分はオープンだから問題ないけど、頭の固い伝統主義者が反対しているだけなんだ」と教えてくれました。上記セミナーで出会ったアザム先生だってそうでした。「自分は大丈夫だけど、ここのムスリムは未熟だから」とか何とか...(参照:2007年11月1日付「ユーリの部屋」)。他の理由としては、三位一体とタウヒードの不一致を挙げる場合がありますが、結局のところ、マレー人の間でも、西洋教育を受けて英語を話すムスリムと、中東へ留学してアラビア語をよく用いるムスリムと、地元でマレー語のみを使って教育を受けた層とに大別され、欧米留学組で、日本人と接触して英語で研究活動をするようなタイプのマレー人は、大抵、開かれた考え方を示すことが多いのです。問題はしかし、そういう教養あるマレー人が、国内で、素朴で伝統的な考え、あるいは堅苦しい考えのマレー人を、充分に説得していないか、説得に失敗しているので、現状が変わらないということなのです。もう一つは、昔、京大名誉教授が教えてくださったように、「口で言うとるだけや、あれ」。
だから、日本で対話会合をしても、あえて質問する気になれないのは、出身国の変革を期待するのが無理そうな予感がするからでもあります。

とにかく、オスマン先生を拝見しながら思い出していたのは、William Roffの“The Origins of Malay Nationalism, University of Malaya Press, Kuala Lumpur/Singapore, Yale University Press, New Haven/London, 1967でした。
誤解なきよう付け加えさせていただくと、お二人とも、マレーシアでは、公平中立で穏健思想を有する、西洋教育を受けたムスリムの典型です。人間的には、好感の持てるよい先生方です。

ユダヤ系の先生お二人プラスお一人を拝見していて、頭の中で鳴り響いていたのが、ブロッホのヴァイオリン・ソナタでした。これも、わかる人にはわかる連想ではないでしょうか。
参加者の一人が、ドイツ留学中に客員教授としてお世話になったことがあるからということで、わざわざ東京から来られていました。「先生、全然変わっていない」と。
こういう話を聞くと、結局、博士号を取得して研究者仲間に入った途端、有名演奏家のごとく、飛行機で世界中飛び回って、狭いサークル内で講演や対話や執筆活動をするという生活に入ることが、より一層鮮明になってきますね。だから、どの人と人間関係を構築して、お互いの大学に招き合うか、ということが鍵になる、という...。

さて、「神の名」問題で、オスマン先生がうつむき加減に「ムスリムが混乱するから」と、私にとっては耳にたこのできた話をされていたら、思わずユダヤ系の先生がブフっと小さく笑っていました。それを見ていた私は、むしろ、そちらの方がおかしくて、つられ笑いを。確かに、ユダヤ系から見れば、笑ってしまう話でしょうねぇ。「自分達が混乱するから相手を押さえとこう」なんて、どう考えても話がおかしい。数年前、イスラエル人の先生にも、その話について書いた拙稿を示したところ、思わずぎょっとした表情をされていたんですが。このように、その珍妙な現象が話題として海外にも広まることで、外に出て行くムスリム知識階層が、いささか恥かしい思いをしながらも、徐々に変わっていければいいのですが。同時に、クリスチャン達も挑発しないように気をつけていただきたいのですけれども。

最後に、ソルボンヌ大学ユダヤ系女性の先生に、会合終了後、エジプトを追放されたユダヤ系女性で、現在フランスに在住の著述家Bat Ye'or氏について尋ねてみました。
「あのう、ナイーブな質問で恐縮なんですが、私、Bat Ye'orの書いた論争的な本を読みました。フランスではどのような評価ですか。あれは正確な記述でしょうか。内容は正しいでしょうか」。もちろん、返答が予想された上で、あえて尋ねているのです。案の定、強く「いいえ」と断言。
「あれは反アラブですから、正しくはないです」「ネガティヴな側面だけを集めているからですね」「そうです。あのズィンミー制度の本でしょう?」「ええ」
Bat Ye'or氏は、フランス語とイタリア語を話す両親の元で育ったので、元はフランス語で書いたようなのです。私は英語の翻訳で読みました(参照:2008年7月8日-13日付「ユーリの部屋」)。
もっとも、故モンゴメリ・ワット教授も「緊急の問題だ」という意味のレビューを書いていましたし(“The Decline of Eastern Christianity under Islam From Jihad to Dhimmitude”の裏表紙)、アメリカのカトリック学者Sidney H. Griffith神父は“The Church in the Shadow of the Mosque: Christians and Muslims in the World of Islam”(2008:148)で、「イスラーム世界におけるユダヤ人とクリスチャン共同体に関してイスラーム法の効果を組織的に研究し、歴史家が無視した重要な点を取り上げているが、彼女の極端な反イスラーム的偏見とその結果の歴史的事実の歪曲と解釈のために、気をつけて引用しなければならない本」だと指摘されていましたから、実を言えば、この会話ほど単純ではありません。それに、限定付きとはいえ、宥和的共存の記述もわずかながら含まれています。
ともかく、こういう会合で、去年読んでおいた本が思いがけず会話で役立ち、よかったなと自己満足しました。だから、勉強しなければならないのです。

慣れが必要なのかもしれませんね。今回は、黙っていても、自分なりに楽しかったので...。新しく知り合いになった先生が、「え!イスラームって改宗できないんですか?」とびっくりされていて、こちらにとっては常識でも、その反応がとても新鮮だったし、以前、ガザ問題の頃に掲載された新聞記事の見出しが失礼だと思ったと申し上げた先生のコメントが、つい引き込まれるような、具体的で実体験に基づく魅力的な内容だったり、新しく学ぶことが多かったんです。
主催者の先生から、ご丁寧な感謝メールが届き、「発言を期待していた」という意味のことが書かれてあり、どうも失礼しました。主人に言わせると、「ほら、せっかくそう言ってもらえたのに。だから、嫌な顔する人や変なことを言う人を気にしないで、どんどん貢献しないと。とりあえずは、興味のある会合に出て行って、それから、英語で書くことだな。何か書けば、どこかで誰かの考えと引っかかって、それが縁でつながりができるよ。もうこれ、前からずっと言ってきたじゃないか」。

ブログについては、英語版を「時々見てるけど、あれ、すごくいいねぇ。マレーシアのイスラーム問題、よくわかるよ。興味に沿った配列で、それがまたいいじゃない?」と褒めてくださったムスリムの先生もいらして、やってよかったな、と。日本語版については、「読めないから」と言いつつも、昼食時に、「ユーリさんは、黙っているけど、また書くんでしょう?」と茶化されました。はい、だからこうやって書きましたよ。