ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アドベントに思いを馳せる

昨日は、近所の図書館に立ち寄って1冊借りた後、大阪・梅田の本屋さんと京都・四条の本屋さんと三条にあるカトリック書房で過ごしました。最近の本よりも古本の方が質の高いものが多く、研究テーマ上、日本語だけでは到底間に合わないことから、最近では本屋さんに出かけることがめったになくなってしまいました。ただ、たまには世の中の動きを感じ取らなければ、と思った次第です。

迷った挙句、買わなかったのが、高校数学の問題集です。Z会の問題集を見ていたのですが、(なんでこの程度の問題が、高校の時にはできなかったんだろう?)と愕然としました。これで、人生を棒に振っていたわけですね。論理を鍛えるには、数学の問題を毎日一問ずつ解けば、自然に身につくかな、と思っていたのですが、時間もお金ももったいなさそうだったので、やめました。(帰宅した主人が、「数学の本なら、うちにも何冊かあるよ」と岩波出版のしっかりした本を教えてくれました。)

結局、これまでためておいたいただきものの図書カード全部を使って、計15冊買い込みました。もちろん、本の包装も袋も丁重にお断りです。一人一人の意識改革で、ほんの小さなことからでも環境問題にこだわらなければ...。
東京一点集中だとか、一人勝ちだとか、いやな言葉が蔓延していますけれども、人間社会の法則から、そんな身勝手な考え方が長続きするはずもありません。そこはもっと自信を持ちましょう。私など、今の大学のわさわさした状況を知るにつけ、主婦としてじっくり勉強させてもらえることをこの上なく感謝していますし、理解ある主人の勤務先にも、そして何より重荷を負いつつ仕事を続けてくれている主人にも、心からありがたく思っています。だからこそ、心と体を休め、ほっとくつろげるあったかい家庭の時間を大事にしたい、ですね。
うちの主人は、筋の通らないことが嫌いで、その点はとても厳しいのですが、根はやさしくて、バランスのとれた見方ができるので、地味だけれど堅実な家庭の大黒柱として、いいお父さんになってくれるかな、と期待して結婚を決めました。実際には、私の保護者兼導き手になっていて、昨日も、「はい、ユーリにはロジックというものが全然ありません」と言われました。感情が先立ちますので、私の場合。しかも、喜怒哀楽が非常に激しいですから。根は実に単純なのですが。
最近、あちらこちらで「えらく活躍していますね」とお褒め頂くことが多くなりましたが、そこは計算のできない私のこと、何を言われているのかよくわからないままに行動しているらしく、主人が、「ま、よかったじゃないか。でも、だから女は怖い、とも思われているんじゃないか。特にオバサン同士は...」と釘をさしてくれました。
三条では、カトリックのカテドラルに立ち寄りました。ひんやりと薄暗いお聖堂では、数人の方々が、それぞれに座って黙想されていました。ステンドグラスと空高くそびえるかのような天井を見上げながら、プロテスタントの峻厳さと自由には惹かれるものの、こうしてお聖堂がいつでも開かれているカトリックの温容さに、改めてローマ史やドイツのカトリック史も勉強してみたくなりました。
カトリックというと、学会や研究会でもすぐに「あ、キリシタンのね...」と、まるで私もキリシタンの末裔であるかのように言われたりしますので、最近はそういう発言をする人の知性や教養を疑うようになってきました。それに、キリスト教の話に関連して、「結局、あの人達は民族の誇りが低くて知能も単純だったから、宣教師達に打ち負かされてしまったのよね」などと自信たっぷりに言う人もいます。すかさず「だけど、明治時代の近代化だって、同じだったんですよ」「無教会の人達は、ハイ・プロフェッショナルですよ(少なくともあなたよりは)」とやんわり反論してみるのですが、その先が続きません。
結局、宗教問題として扱うので、そういう次元でとどまってしまうのでしょう。だからこそ、神学関連の本を学部時代から少しずつ読んでおいてよかった、とも思います。神学は哲学と関連があり、論理の構築が重視されるのですから、それは厳しいものです。専攻するつもりはもちろんなくとも、少なくとも、そういう分野があるということを知っているのと知らないのとでは、まったく違ってくるからです。
そう言えば、数日前に、同志社大学神学部からジャーナルが送られてきました。ようやく、方針を2003年以前に戻されたようで、キリスト教本来の論文が掲載されています。こういうものを読んでおくかどうかで、表面上は直接引用されなくとも、自信を持って自分のテーマに向かうことができます。橋本滋男名誉教授が、私におっしゃってくださいました。「他に類を見ない研究をしているので、掲載の不可は別としても、このジャーナルに投稿することを考えてみてはどうですか」と。また、イスラーム研究とムスリムを指して「大学なんだから客観的に信仰体系を見ることは第一要件でしょう?」と、おっしゃっていました。同様のことは、母校の英国人の先生も2006年9月に私に言われました。「ムスリムは、自分の宗教を批判的に見なければならない」と。この先生は、二つ目の博士号取得に取り組まれているそうで、もともとは、理系の研究でマレーシアに赴く予定もあったようです。
日本の大学の一部、特にマレーシアやインドネシア関連で、インテリによるアラブ・イスラーム化が徐々に浸透しつつあることについて、ロンドン在住の広東系マレーシア人牧師の友人から早速お返事が届きました。「英国では、既に深刻な問題となっている。多文化主義や寛容の名の下に、非ムスリムが後退させられ、あるいは妥協させられている。近いうちに、日本もそうなるかもしれないのだが、だからこそ今、しっかりとした対策を打ち立てなければならない」と。ヌグリ・スンビラン州のクアラ・ピラー出身で、かつては日本軍に痛めつけられた記憶を有している方ですが、このように、日本の大学の行く末を心配していただけて、本当に感謝以外、なにものでもありません。