ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ムスリム・クリスチャン関係の障壁

突然で恐縮ですが、2008年3月29日付「ユーリの部屋」の後半部分で書いた『ムスリムとの対話におけるキリスト論:9世紀と20世紀になされたムスリム向けキリスト提示の批判的分析』(拙訳)という本に関して、重大なミスが二か所見つかりました。(Mark BeaumontChristology in Dialogue with Muslims: A Critical Analysis of Christian Presentations of Christ for Muslims from the Ninth and Twentieth Centuries”, Regnum, 2005
「9世紀から20世紀」ではなく「9世紀と20世紀」であること、そしてアラビア語名の論者3人はムスリムではなく、中東のクリスチャン護教家であるということです。大変失礼いたしました。当該個所は既に修正してあります。ご興味のある方は、どうぞご確認ください。この論文については、2008年4月7日付「ユーリの部屋」にも、入手したことのみ触れておきましたが、内容に関して何ら説明を加えていなかったので、ここで簡単にご紹介しましょう。
著者は、スコットランドのバプテスト派牧師を5年間務めた後に、モロッコで10年間英語教師をし、その後の11年間は、バーミンガムキリスト教学院の宣教学部長をされていました。(奥様の名前が「キョウコ」とあるのですが、日本人なのでしょうか?)本書は、宣教学オックスフォードセンターのオープン大学で、2003年に博士号を授与された論文が元になっています。
著者によれば、9世紀初頭は、ムスリムに対するキリスト教護教家が複数存在した銘記すべき時期であるとのことです。その他の時期には、さしたる記録が残っていないので、この論文では9世紀に焦点を当てたようです。そして、20世紀には、現実に迫られてムスリムとの対話が必須となり、誠実に対話を試みた中から代表的神学者として、Kenneth Cragg, John Hick, Hans Küngの3人を分析対象としたとようです。
9世紀の中東系キリスト教護教家のうち、Abu Qurraは、755年から829年まで生きたカルケドンの神学者、Habib ibn Khidma Abu Raitaは、ヤコブ派(キリスト単性論者)の神学者で、Abu Qurraと同時代人、Ammar al-Basriはネストリウス派神学者で、前者二人より若い世代に属するそうです。ご参考までに、Kenneth CraggThe Arab Christian: A History in the Middle East" Westminster/John Knox Press, Kentucky1991)では、9世紀の中東クリスチャンの対話者のうち、Abu Qurraしか言及がありません。しかも、在命期間が750年から825年と差異があります(p.80)。
この書の参考文献表を眺めてみると、私が集めてきた資料と重なるところが多くあります。しかし、深刻なのは、この論文の考察で取り上げた6人の神学議論では、誰一人としてムスリムによる十字架否定あるいはキリストの神性否定を挽回するのに成功した人はいなかったという結論部分です。対話のためのキリスト教側のイスラーム理解努力は称賛されるものの、ムスリムクルアーンの無謬絶対性を主張する限りにおいて、対話は実りある相互理解に至っていないというのです(pp.194-212)。ですから、この書によって、私なりのテーマの理論的枠組みが構築できるかと思っていたのは、早合点でした。むしろ、誠実かつ慎重なキリスト教側の努力の足跡を辿るための参考書、といった体裁のようです。
この結論部分は悲観的ですが、21世紀のムスリム・クリスチャン対話においては、同じ方策を回避しつつ、さらに創造的な対話を模索する必要があるという提案がなされています。
ところで、日本でこのような話をすると、「私はキリスト教が嫌いだから、そんな問題どうでもいい」とか、場合によっては、ケラケラとうれしそうに笑った人もいました。失礼な人達だと思いましたけれども、言うまでもなく、その人にとってどうかという問題ではなく、マレーシアの当事者がどうなのか、が重要なのです。
なぜこのような研究が必要かといえば、ムスリムキリスト教化するためという19世紀的な目的ではなく、ムスリムとの接触において、キリスト教側がアイデンティティの窮地に立たされるからです。マレーシアの諸事例をこのブログでも書き綴ってきましたが、社会政治学的な観察では回避されがちなこの原点をクリアしない限り、マレーシアにおけるキリスト教会が直面する問題は解決され得ないでしょう。ミッションスクールのマレーシア化によって、英語からマレー語へ教育媒介用言語が変わり、校長先生もマレー人が増え、十字架や聖画の取り下げや破壊が実施され、クリスチャン生徒のキリスト教教育が脇へ押しやられ、その結果、学力水準も平均して従来よりも下がってしまっているという事例は、根本的にはこのキリスト論をめぐる議論から派生していると考えられます。「いやなら出て行け」と言われて出て行ける人は幸せです。出て行けない人々も多いからこそ、どう解決すべきかが問題なのです。

今、FMラジオで、N響定期公演の生放送を聴いています。ショスタコーヴィチ交響曲第5番です。曲の解釈がいろいろあり、解釈史とでも呼べる変遷を伴うため、聴く側としては、あえて意味を考えずに純粋に音楽として楽しむ聴き方もあるというようなお話でした。まあね、というところですが、やはり今のところは、亀山郁夫先生の解釈が、私には一番ぴったりきます。

PS:たった今、遅ればせながら気づきました。2008年2月13日・3月20日・3月25日・4月26日付「ユーリの部屋」で言及した、マレーシアの英国国教会の司祭であるAlbert Sundraraj Walters博士の“Knowing our Neighbour: A Study of Islam for Christians in Malaysia" Council of Churches of Malaysia2007)には、私の英語論文が引用されていたのでした(p.254)。この先生には直接お目にかかったこともありませんし、論文を送付したわけではありませんが、CCMオフィスとマレーシア神学院の事務スタッフや図書館スタッフには送っておいたので、誰かが参考に渡してくださったのかもしれません。お役に立ててとてもうれしく思っています。むしろ、日本語だけで発表して日本の大学だけで‘評価’されるよりは、こういう風に当事国の関係者に利用していただける方が、大きな喜びです。そのための長年に及ぶリサーチなのですから。今日の午前中、送っていただいたばかりの故前田護郎先生の選集3を半分ほど読みましたが、戦時中のヨーロッパで温かい学的交流に恵まれたと記していらっしゃるところに感銘を受けました。私自身も平和な現代でこそ、マレーシアに対して何かしなければと思った初心を再び思い出した次第です。