ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ユダヤ式教育の源泉と秘訣

小川国夫氏が80歳でご逝去されました。氏のご著作については、数年前、ジュンク堂の冊子『書標』に寄稿したところ、採用されました(2001年4月号, pp.28-29)。以下は、その拙稿です(http://www.junkudo.co.jp)。

「力の源泉」  
 最近、小川国夫氏の『私の聖書』(岩波書店1994)を手にした。高校の国語教科書で初めてお目にかかった時、心に強く響くものを感じたが、何よりも、やさしい言葉で深く鋭い思想を表現されるところに魅かれた。十数年ぶりに再会した懐かしさも手伝って、氏の語る世界にぐいぐいと引き込まれていった。
 特に印象に残ったのは「聖書の終末世界」の預言者エレミヤについての言及だった。エレミヤ書と言えば、忘れもしない、十九歳の時のゴールデンウィーク中、友人に誘われて初めて目にした旧約文書である。神の招きに対して、口下手のエレミヤは「歳が若いことを口実に逃げてはいけない」と諭され、口に力を授けられる。「泣きのエレミヤ」と呼ばれたこの預言者の話の冒頭は、私にとって全く未知の世界で、非常に強烈な印象を残した。
 エレミヤ書第36章に関して氏はこう述べる。「ものを書くというならばこのエレミヤのようでなければならない」。エレミヤはバルクに書き取らせたことばの巻物を、支配者の王に暖炉で燃やされてしまうのだが、それでもあきらめずに改めて別の巻物を取って再び同じことばを書き記させた、と聖書にはある。「ほんとうに書く、自分は書かなければならないという確乎たる意志を持っていた」エレミヤに「不撓不屈の心構え」を見出した、と氏は書く。
 聖書学者の一説によれば、この箇所は創作物語であるという。確かに、事実かどうか詮索するのも無意味と思われるような話ではある。しかし氏は、古い時代の中東で書かれたその話から励ましを受け、書くことの根本義を認められるのである。「信仰とはイメージの実在を信じる事」と氏は語る。聖書から数多くの作品が生まれているが、その源泉にはこうした受けとめ方があるのだろう。不安と混迷の時代と世は言う。しかし、いつの世でも、創造と前進の力の根源は、常に私達に用意されているのだと教えられた気がする。(終)

ところで昨日、『子どもが伸びるユダヤ式教育アシェル・ナイム(著)・河合一充(訳)ミルトス2000年)を借りました。
著者は、1930年リビアトリポリ生まれ。1943年イスラエル移住、ヘブライ大学法学部卒業。1956年から4年間、在日イスラエル大使館広報文化担当官。その後、ケニアアメリカ、フィンランドエチオピアで外交官、総領事、大使を務める。特に、エチオピアでは「ソロモン作戦」でエチオピアユダヤ人の救出を成功させた。1991年イスラエル国連大使として、国連の1975年イスラエル非難決議(シオニズムは人種差別主義)を撤回。1992年韓国大使、1995年退職。
このように、とても輝かしいご経歴ですが、日本任期中は、オリエント学で有名な三笠宮殿下のヘブライ語指導を担当され、東大でもヘブライ語を教え、イスラエル交響楽団の初来日に尽くされただけでなく、日本の琴を演奏した最初の外国人男性としても有名だったそうです。また、訳者あとがきによれば、上智大学の夜間講座で日本の文化や歴史を学び、学士号まで取得されたとのことです。
氏は、ユダヤ人の優秀さの秘訣は、家庭での教育熱心さ、それも聖書に基づく教育だと、明確に主張されていました。それも、昨日の「ユーリの部屋」で書いたように、日本のキリスト教会での受動的な説教とは異なり、小さな頃から、聖書の言葉や祈りを何度も暗唱して身につけ、疑問や好奇心を持つことを奨励し、分析し議論することを学ばせるのだそうです。いいなあ、私もそういう教育を受けたかったなあ、と思います。聖書を除けば、小学5,6年の時の教育方針がよく似ていましたが、「マイム、マイム」のフォークダンスを教わったのも、その時でしたから、担任の先生は、どこかでユダヤ式教育の応用を試みたかったのかもしれませんね(参照:2007年7月28日付「ユーリの部屋」)。
この本は活字も大きく、すぐに読めてしまうのですが、その内容は、決して大ボラのユダヤ自慢とも言えません。知り合いのイスラエル人の女性の先生も、同じようなことを私に話されたことがあるからです。
本の学校に通うお嬢さんには、家ではヘブライ語で話しかけ、しかも、英語の本を取り寄せて、読み聞かせていらしたとのこと。つまり、三言語で育てていらっしゃるのです(参照:2007年8月21日付「ユーリの部屋」)。また、テレビもめったに見ないとの由。アニメだけは、学校での社交のために、たまには見てもよいことにしているそうですが。このように、どの国でも何とか生きていけるように、現実的に教育を施していらっしゃるのですね。塾に入れて、送り迎えだけしているどこかのお母さん達とは、気構えが違います。
それに、ユダヤ人は、独創的な発想を持つことやその人自身であることを、非常に重要なことと考えるようです。そのような能力や気質を、横並びにして抑えつけたり、あるいは競争に駆り立てたりするのではなく、むしろ、早いうちに親が見つけ出して、極力伸ばしていくのだそうです。
確かに、上記のイスラエル人の先生も、私が「優秀な人なら、20代半ばで博士号が終わっていると聞きますけど」と言った時、「何言っているの!学ぶに遅すぎることは決してないのよ。私だって、何年も勉強を続けて、ここまで来たのよ」と即座に励まされました。やっぱり、こういうところが違うなあと素直に感じますね。日本人の先生達の中には、単に直截的で正直なだけなのだろうと思いますが、「その年じゃ無理ね。勉強したとしても、その後がまた大変だからね」などと、最初から道をふさぐようなことを平気でおっしゃる方も、時々いますから。

教育とか、その人の持つ向上心を伸ばす手助けをすることを重視する姿勢は、ユダヤ教の教えに基づくものなのでしょうか。そうだとしたら、昔、教会で聞いたような、「ユダヤ教は律法主義であり、いまだにイエスをキリストだと認めず救い主を待望しているから、イスラエルは混乱しているのだ」という見解が、まったく外れていることがわかります。隔月誌『みるとす』を読み始めて1年以上たち、地に足をつけた、極めて健全で現実に即した教えを説くのがユダヤ教だなあ、という印象を持ちつつあります。あえて比較するならば、キリスト教の方が、「救われた」などと信じることを重視し、学問や学者を「謙虚さがない」といささか小馬鹿にし、来世に希望をつなぎ、やや夢想的な点がなきにしもあらず、と言えるかもしれません。これは、私の周辺で実際に見聞した範囲で書いているだけですが。

イスラエルの人々が概して日本に好意的なのは、非常に感謝すべきことです。
私自身の例を挙げますと、昨年3月上旬のイスラエル旅行中、死海のホテルでプールにつかっていたら、東欧系らしいイスラエル人の初老男性が、私を手招きして、にこにこと話しかけられました。空手や柔道など、日本の武道を習い続けているそうです。日本からも、定期的に武道の師範がイスラエルに来られて、直接指導を受けるのだとおっしゃっていました。だから、浮かんでいる私を見て、すぐに日本人だとわかったとのこと。普段はテルアヴィヴに住んでハイテク関連のお仕事をし、月に一度、車で死海まで来て、ホテルで保養するのだとの由。
このように、歴史的に苦難の民であり続けた人々が、単純に知日派というのみならず、親日的でもいらっしゃるのは、本当にありがたいことです。もっとも、ナチス・ドイツの迫害時代にも、ユダヤ人にビザを発給した外交官が日本人だったことも大きいですし、『少年H』のお父さんのように、着のみ着のまま神戸へ逃げてきたユダヤの人々に対して、長旅の衣服の綻びを丁寧に繕って返した、市井の善意の日本人の存在も無視できません(妹尾河童少年H上巻講談社文庫 1999/2000第8刷 pp.276-279)。(『少年H』については、2007年12月14日付「ユーリの部屋」を参照のこと。)

ここでマレーシアに話を移します。1970年代まではペナンに最後のシナゴーグがあったそうですが、いつの間にか閉鎖されてしまったそうです。1957年のマレーシア独立前の人口統計によれば、マラヤにも、確かにユダヤ人が住んでいたことがわかります(参考:Hirschmann "The Journal of Asian Studies", August 1987, Vol.46, No.3, pp.555-582)のマレーシア人口統計の変遷に関する論文)。多くは海峡植民地に住み、教育者やテクニシャンなどの専門職として暮らしていたそうです。
現在、表向きユダヤ人だとかイスラエル人だとか言えないマレーシアでは、その人々の末裔は、もし今でもいるとしたら、恐らくはシンガポールに移住したか、新たに取得した他国の国籍名を語っているのではないかと思われます。例えば、マラヤ大学での私の指導教官でいらしたマヤ先生も、ある時、こう言われました。「研究目的でマレー人にインタビューする時、その人はユダヤ系だったんだけど、『私はアメリカから来ました』と言っていたの。わかるわね、その意味?でも、それは嘘じゃないのよ。だって、その人は本当にアメリカ国籍を取得したんですから」と。こういうエピソードが語れるのも、マヤ先生がシンド地方出身二世のカトリックだからという背景もあずかっているでしょう(参照:2007年12月29日付「ユーリの部屋」)。

東京の広尾にある日本ユダヤ教団を初めて訪れたのは、2000年2月上旬のことでした。当時、東京外国語大学の共同研究員をしていた私は、都内の諸大学が所蔵するマレー語聖書について調べていたのですが、時間とお金が多少余ったので、地図を見て、広尾まで行くことにしたのです。インターフォンで用件を伝えると、頑丈な鉄格子で厳重にガードされた重々しい門が開き、中から若い日本女性が出て来られました。東外大研究員の許可状と研究テーマの用紙を見せると、「関係ないですもんね」とあっさり言われ、中を通してもらえました。マレーシアとイスラエルは国交がないのに、本当に「関係ない」と言えるのかどうか、今では少し疑問に思いますが、「時々、変な人がここに来るので、このようにしている」とのご説明でした。しばらく館内を眺めていると、品のよさそうなイスラエル系の中年男性が歩いてきました。私が思わず会釈すると、にっこり微笑み返してくださいました。(そういえば、死海で出会ったおじさんに似た風貌の方だったなあ)と、今これを書きながら、懐かしく思い出しています。