ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

この辺で少し中間休みを

昨日から、何だか喉がひりひりと軽く痛みます。今日は雨なので、念のため、家でゆっくりすることにしましょう。こんな時には、たまった本が読めるのでありがたいです。元気だとつい動き回り、あれこれ用事を済ませようとして、時間がいくらあっても足りないのです。
石井桃子先生を偲んで、「ノンちゃん雲に乗る」がおさめられている岩波書店配本の『石井桃子集1』(1998年)を町の図書館から借りてきました。言葉使いが古風で品よく、(いくら情報化時代とはいえ、やっぱりインターネット文献だけ読んでいたら駄目になるなあ)と、つくづく感じます。読むだけではなく、時間をかけて手で書く作業も、バランスよく配分すべきでしょう。与えられた手足は、訓練して充分使いこなさなければ。たとえ元が少々悪くても、手入れ次第で持ちが良くなるのと同じですね。
ところで昨夜、なぜかふと思い立って、共産主義ソ連で最後となった1990年のチャイコフスキー・コンクールのヴァイオリン部門で、史上最年少の優勝者であった諏訪内晶子さんの映像を、You Tubeで見ました。当時、私はマレーシアで頑張っている最中でしたので、当然のことながら、このニュースは帰国してから知りました。大きなワープロで教材を作る時代でしたから、手紙と衛星版朝日新聞か衛星版日経新聞ぐらいでしか、日本の情報が伝わってこなかったのです。週刊誌は、もともとめったに読まないですし。
第一印象は、(時代だなあ、これも)というものでした。世界で活躍中の最近の日本人若手女性ヴァイオリニスト何人かと比べると、上手は上手だけれども、優等生っぽいというのか、どこか堅苦しくて、先生に言われた通りにきちんと演奏するおとなしい感じがしました。現在の若手女性達は、舞台に立つと、もっと体の動きも大きく、自信を持って堂々と奏しているように思います。個性もはっきりしていて、海外情勢や音楽以外にも関心が広く、活発な好奇心の持ち主という印象を受けます。そのように、音楽教育も時代背景も変わってきたということかもしれません。
というのは、フィギュアスケートや体操などを見ていても、昔の日本の選手達は、まじめだけれど、緊張して硬くなり、競技を楽しむというよりも、「日本の皆さん、ごめんなさい」と期待を背負ってがちがちになっていたように思うからです。現在の選手は、のびのびと演技し、体格も美しくなり、衣装もはるかに華やかで強いインパクトを与え、インタビューも自分の言葉で表現しています。これも、スポーツ科学の進展により、メンタル面でも研究しながら選手を育てているからではないでしょうか。

傾向としては、その方が望ましいと思っています。ですが、諏訪内さんに話を戻しますと、一方で、1990年夏頃のNHKテレビの番組では、いかにも良家の育ちと見えるきれいなお嬢さんが、茶色のワンピースドレスを着て、端正な話し方で淡々と優勝を語っているのを見て、(こんな時代もあったのだなあ)と懐かしい気がしたことも、正直に言い添えておきましょう。まだあの頃は、良くも悪くも、世間体というものが生きていたので、かくあるべし、という型があったのだろうと思います。その型に収まりきれないと、「生きにくさ」や「自分探し」などというキャッチフレーズになり、現在の自由で多彩なあり方へと誘導したのだろうかとも思われます。

以上は、私の単なる懐古趣味や根拠のない憶測でもなさそうです。チューリヒ大学神学部のSamuel Vollenweider教授も、去る3月24日のご講演で、「私が京都に住んでいた20年前と比べて、今の日本の方達は、服装や行動が、より多彩になってきたように思います」という意味のことをおっしゃっていました。