ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

多様性への希求とは

昨日は、またまた後退した意見が出てきて、正直なところ、不愉快になりました。勝手に読んでおいて、自分の意に沿わない個人的見解は書くな、と言われているようなものです。読みたくなければ、読まなければいいだけです。全体を通さず一部だけ読んで、いちいちコメントをしてくるというのも、ちょっとどうかしています。
人のせいにするわけではありませんけれども、たびたび書いているように、この種のレベルの‘干渉’のせいで、私は学校時代からかなり遅れをとり、損をしてきました。はっきりと書きますが、本当に遅れているのです。研究とは、どの分野でも、誰よりも早くオリジナルの新しい考えを出していくのが仕事なのに、何だか妨害されているように感じます。この歳になって取り戻せるかどうか...。まじめで素直な性格も、考えものです。
本件がいらいらさせられるのは、マレーシアでの部分閉鎖的な考え方と、非常に似たものを感じるからです。当地に住む全員がそういう考え方ならば、話は別です。しかし、政治権力を握っている当局の一部が、自己の考えのみに基づいて他者をコントロールしようとするので、社会のよどみや歪みを生み、真の発展を阻んでいるのです。その結果、優秀な人々がどんどん他国へ流出してしまっています。そのために、外国人である私としても問題視しているわけです。

そういえば、昨日付マレーシアの電子版新聞『マレーシア・キニ』や『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』にも、空港で英語訳聖書を税関が没収したニュースが出ていました(参考:2008年2月5日付“Lily's Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2))。
つい最近までは、日本のマレーシア研究者の中でも、「マレー人へのキリスト教宣教のために、マレー語聖書が問題になるのでは」と言う人達がいました。しかし、私の口頭発表で、数年前のイバン語訳聖書をはじめ、1990年代の中国語訳聖書の発禁措置や没収などの事件が明るみになると、ムスリムへの宣教活動を理由にしていた人々も、さすがに口を閉ざすようになりました。そして、晴れてこの度は英語訳聖書の没収です!
(ユーリ後記:この文章を書いた後に、当該聖書の返却措置がとられた由、ニュースで知りました。キリスト教関係者も神経質になって敏感に反応し過ぎなのかもしれませんが、当事者の立場になってみれば、次から次へと問題が発生するので、事が小さいうちに公にして解決を図ろうとする意図は、それなりに理解できなくもありません。マレーシアの問題を海外報道機関に伝える時には、注意しなければならないと、マレーシアのあるキリスト教指導者がおっしゃいました。確かにその通りです。しかし、インターネット時代には、いつまでも黙しているわけにもいかなくなってしまいました。)

とにかく、昨日のコメントにせよ、マレーシアでの英語訳聖書の没収の件にせよ、なんだか、ますます『ペルセポリス』の革命防衛隊の人達と、どこか似た感じになってきましたね。何度か出てきますよ。マルジ/マルジャンのスカーフや服装に文句をつけてきたり、遅れそうになって走っていたら、「走り方が男性の目を引くので、気をつけろ」と注意してきたり…(本文ではもっと直截的な表現でした)。

論旨がずれるので、研究上はマレーシアの聖書翻訳問題に焦点を当てていますが、実は、このブログでも何度か打ち明けてきたように、日本国内でも形を変えた同類の妙な抑圧は、たびたびあるのです。昨日のコメントだって、解釈のしようによっては、その類に属するでしょう。

ペルセポリス』には、もっといいことが書いてありました。「どの宗教にも、極端な人がいるものだ」と。そうです。この宗教を信じている人達だから絶対だということは言えず、どの宗教にも、いい人もいれば変な人もいる。つまり、いろんな人がいるのだ、ということです。子どもじみていますが、ここでもう一度、この当たり前のことをおさらいしておきたいと思います。

ところで、多様性の現実に耐えられるかどうかが、原理主義か否かを判断する尺度の一つだと聞いたことがあります。ただし、唯一例外の条件があります。相手の価値観を認めると自分の存在が危機に陥る場合には、この尺度を除外するということです。

昨日はテレビで、2005年1月7日8日にアムステルダムで開かれたゲルギエフ指揮ロッテルダムフィルハーモニー管弦楽団の演奏会が放映されていました。マーラー交響曲第8番一千人の交響曲」です!ラインラント少年合唱団、ハーグ少年合唱団、水兵隊少年合唱団、オランダ放送合唱団、ベルリン放送合唱団にソロ歌手数名と、なんとも絢爛豪華な演奏会でした。開演前、楽屋で待機中の歌手や指揮者の様子が映っていたのも興味深く思いました。こうやって、わくわく落ち着かない気分で幕が上がるのを待っていらっしゃるんだな、と。ゲルギエフ氏の熱心な指揮ぶりも、顔の表情がよく見えて感慨深かったです。このマーラーは、歌詞が特に印象的です。こういう時、聖書を読んでおいてよかったとつくづく思いますね。私の聖書の読み方は、多分、無意識のうちに文学的なのだろうと思います。文学部出身ですから、当然といえば当然でしょう。
それに、夜には、NHK教育テレビで、亀山郁夫先生のドストエフスキー論が展開されていました。亀山先生は、やはり亀山先生でした。先生のブログ「カフェ・マヤコフスキー」を毎日のように読んでいますが、学生時代にロシア文学に触れておいたことの意味が今頃わかってきたように思います。ヴァイオリニストの故ミルシテイン氏は、ドストエフスキーよりもチェーホフの方が優れていると述べていたように記憶していますが、そういう議論ができる環境を、まずうらやましく思います。

芸術の多様性は、尊重されるべきです。演奏家のみならず、受け手の解釈の多様性も含むのです。その派生で、以前も部分引用しましたが(参照:2008年1月14日付「ユーリの部屋」)、再度『小澤征爾 音楽ひとりひとりの夕陽』(講談社+α新書)から一部をご紹介いたしましょう。
ただし、この引用は、全部が小澤氏の発言でもなく、筆者の考えでもないことを最初にお断りいたします。また、私自身のメモを元にしていますので、正確な引用でもありません、念のため。

・ちゃんとした技術を持っていれば、いろいろな国の伝統を見て見分けがつく→いいものを吸収して自分のものになる(p.31)
・西洋人は自分たちの伝統であり、血だと思っている音楽をわざわざ分析したりしない。でも、外国人である日本人はしっかり分析し、理解しなければならない(p.31)
・ものまねだとすぐにばれる。自分のものになるかどうか。(p.37)
・迎えた西洋は、それを東洋に限らない多様性への要求として受け止め、鍵を開けた。西洋の文化にはもともと、そういう対話性、開放性が組み込まれている。(p.39)
・さまざまな文化の要素も取り入れた結果、レパートリーが多彩で豊富(p.42)
・「個」が絶対に大事(p.61)
・インターネットなどコミュニケーションの手段もいろいろある。うまく利用していって、一人一人が大事なんだというところにおさまっていけば(p.67)
・地球規模の個人ネットワーク化←対話志向・コミュニケーション能力に由来(p.68)
・個であるには勇気がいる。人間への素朴な信頼感。相手によって態度を変えたりしない。(p.71)
・世界が多様であること。自由であればあるほどいい。(p.74)
・世界的、普遍的であるために「個」でなければならない←いい音楽を聴けばその意味が簡単につかめる(p.75)
・何か迷った時に、決して他人はどうしているかなと参照しないでほしい。他人がやっていることを見てはならない(p.76)
・情報時代に生きているからこそ、「それぞれ独自の表現を磨くしかない」(p.77)
・幅広く自分を持っている人ほど自己を乗り越え、普遍性に届く(p.78)
・楽譜を深く読み込むことで、旋律の中に問いかけを感じるようになり、それが私への問いかけになっていく(p.79)
伝統芸能の師匠が弟子に秘術を口伝する閉鎖的な制度・慣習←→楽譜という形式が持つ普遍性。見れば基本的に理解できるという開放的な仕組み(p.80)
・ヨーロッパ音楽は平均律だから普及しやすい。西欧近代文明文化のよさは、どんなところへも持って行かれること(p.81)
・音楽家と聴者の間に「育てあい」の信頼関係がある時、音楽の水準がどんどん上がっていく。「答え」ではなく「問いかけ」。高めあいの関係。(p.89, 92)
・知的には相互理解が進んでいるが、感情的にはどうか(p.97)
・自分の命の感情を表現する力をたくさん身につけるべき(p.100)
・個人の自由な意志を無視した音楽なんて、やり方はテロと似ていますね。(p.105)
・量が山とある中で、いかにユニークでいかに価値があるか(p.109)
・自分の好きなことを自分で探す余裕(p.113)
・起承転結・序破急天地人(p.126)
・西洋の音楽に他文化を受け入れる包容力が備わっていたこと(p.127)
・想像力・自由に創造的に→長文の能書きで人々の発想を縛るのはよくない(p.135)
・芸術は、世の中のいいものも悪いものもゴミさえも雑多に取り入れ、発酵させて美しい作品にしてしまう(p.137)
演奏家が自分の心の中に音楽を多様に受けとめ、反応できるだけの幅広い選択肢がなければだめ。どういう人生経験を積み重ねてきたか。(p.139)
・知性の働きとバランスには、知恵が必要(p.142)
・難しい曲をあくまで簡潔にさらりと自然に歌ってこそ本当の実力(p.144)
・人に何らかの影響を与える作品というのは、誰かに向って何かを発したいという気持ちがあるから。いい演奏はそこで必ず反応として返ってくる。(p.157)
・人間は、そもそもどこから来てどこへ行くのかという問い(p.157)

亀山先生が、ドストエフスキー罪と罰』を通して語ろうとされていたことは、どこか上記と通低するものがあるのでは、と感じました。やはり、文学と音楽そして宗教(この場合は、広い意味でのキリスト教)は、私にとって重要な要素です。多様性への希求は、恐らくここから来ているのだろうと思われます。