ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

あしながおじさまからのプレゼント

インドネシアスハルト元大統領が亡くなりました。政治家としての評価はさまざまで、これから解明が進む研究分野もあるのでしょうが、とにもかくにも、一つの時代の区切りという感じがします。
大阪府知事選では、今後の手腕が厳しく問われるであろう結果となりました。それにしても、大阪というところは、タレント知事や女性知事や38歳の若手知事や、いろんな人が次々に現れて、ちょっと私にはついていけない感覚があります。そういう土地柄だということをよくわきまえて、自己判断を確立せよ、ということなのでしょう。

話は変わりますが、昨日は突然、「聖書版あしながおじさま」(「ユーリの部屋」2007年7月6日、11月9日付参照)からお手紙が届きました。やはり、あしながおじさまはあしながおじさまでした。今、刊行されつつある前田護郎先生の選集を、私にそっくりプレゼントしてくださるというのです。全巻揃えると、結構値のはるものなので、公費で潤沢な研究費が下りる身分ならともかく、自費でずっと勉強を続けている者としては、図書館で少しずつ読み、必要な部分は例の如くノートに写すか、コピーをとろうと密かに計画していました。すっかりこちらの懐具合を見透かされたようで、千里眼というのか、お心遣いには大変恐縮です。
主人と相談の結果、せっかくそこまで言ってくださるならば、ご好意はありがたくお受けしよう、ということになりました。
ところで、2007年11月2日付「ユーリの部屋」にも書いたように、今やキリスト教系の学会でも、「前田護郎先生って、そういう先生がいらしたんですか」という大胆失礼な質問が聞かれる嘆かわしい時代です。(しかも、荒井献先生の目の前で!)
その方は、お見かけするところ私と同世代ぐらいで、スイスにも長らく留学されていたらしいのですが、先達の歩みを知ることなく、自分の業績追求だけに精魂を傾けるというのは、どうも私の性に合いません。先行研究を探っていたら、いつまでたっても自分の意見が形にならないので、とりあえず目の前の課題に全力を尽くすというのも、要領の上ではわからなくもない話ですけれども。第一、人前でお話する時に、なんだか恥ずかしいじゃないですか。もし学歴が立派だったとしたら、なおさら恥ずかしいです。
ただ、前田護郎先生の師友であられた「バルト・ブルトマン・ティリヒ」などについては、2,3年前にアメリカの南メソディスト大学神学部の教授とメールでやりとりしていたところ、「え?日本では、まだそういう神学者の著作を読んでいるのですか。ここアメリカでは、うちの学生達でも、名前は知っていても、もう読まないですよ」とのことでした。日本では、キリスト教人口が少ないのと、真にキリスト教学者と呼べる研究者の人数もごく限られているため、自分の師が交流関係から得た知見を、大切に弟子にも受け継がせようとする傾向にあって、その点でどこか遅れをとってしまうのかもしれません。
そうは言っても、同時に並び称せられている新渡戸稲造南原繁矢内原忠雄・黒崎幸吉・塚本虎二氏などとの「師友追想」のエッセイは、今でも私共が大いに学び啓発されるべき内容を含んでいることと思います。このように、自国の人であるなら、調べさえすれば、多少は研究潮流や現状での位置づけがわからなくもないのですが、ドイツ系神学者の場合、同じキリスト教でも、ドイツ語圏と英語圏とでは、需要および受容の在り方が多少異なるようで、なかなか難しいところです。ましてや、それを日本に翻訳導入するのですから、浸透消化までに相当時間の開きが出るのも、ある程度やむを得ないことでしょう。

ご年配の引退牧師の間では、前田護郎先生のお名前は、すぐにピンと来るようです。数年前に私も、「前田護郎?あなた、そういうものを読んでいるんですか?ところで、出身大学はどこですか」と聞かれ、「そういうことなら、他の教会に行ってください。教会は弱い人の集まりです」と門前払い(?)されてしまったことがあります。

この辺のところが、どうやら現代日本キリスト教会の一種矛盾でもあろうかとも邪推しています。若い世代が教会になかなか定着しないのは知識階級中心のキリスト教だったからではないかという反省から、文語訳を現代語訳に易しく変えたり、クラシック風コラールや賛美歌を減らしてギターをかき鳴らすポップ風ゴスペルを採用したりしておいて、一方で、自律的で能動的な女性達を排除しているんですから。ちなみに、私の周囲の同世代で知る限り、九大出身でカトリックの京大助教授(当時)の女性も、東大出身でヘブライ語に全く問題のないアングリカンの女性研究者も、ドイツ語で信仰エッセイの書けるプロテスタントの若手女性研究者も、元帰国子女のカトリックで博士号を持つ大学専任の方も、ご本人から直接聞いたところでは、皆一様に、「教会にはもう行っていない」とか「なかなか所属教会が見つからない」などと言っていました。

この問題は、ある面、真剣に議論して対処しなければならないものでしょう。今日のところは、この辺にとどめておきます。