ここでひと休みを
昨日の学会発表は、何とか無事終了。今少しほっとしています。
日曜日の午後にキリスト教の学会を開くなんて、と初めはびっくりしていましたが、どうも会場予約の都合もあったようです。20名ほどの小さな集まりだったものの、れっきとしたミッション系大学の神学部のご年配の先生方の前で発表するとなれば、やはりそれ相応の準備や覚悟が必要です。
発表テーマの一次資料そのものは、2005年8月にアメリカの神学校で集めたもので、私訳も随分前に済ませてあったのですが、全部で29ページにも及ぶため、かなり端折った部分をレジュメに掲載しました。
反応としては、密かなニックネーム「みのもんた」先生が、「おもしろかった」と一言。他にも、去年発表されて、今年も東京から来てくださった先生が、「他の学会でも発表してみては」とご紹介くださいました。若い発表者の方も、「すごく大変なリサーチですね。膨大な資料ですね」と言ってくださいました。
そうなんですよ。こんなに手間暇かかると初めから知っていたら、絶対にやらなかったですよ。やっていくうちに、(これは大がかりなリサーチになる、大変だ)と気づいたのですが、(やめようやめよう)と何度も思いつつも、乗りかかった船で、こんな風になってしまった、という...。
でも、根気よく発表を続けていくうちに、こうして理解してくださる方々が増えて、話が広がっていくというのは、うれしいものです。他の発表者のご苦労も身近に感じられるようになってきますし...。
先日、インドネシア人神学者の講演会(2009年2月18日付「ユーリの部屋」)を聞きに行かれたというご年配の先生からも直接お声がかかり、マレーシアのムスリムの教育程度はどうなのか、コーランの意味はどのように理解しているのか、マレー人のアラビア語の理解度はどうなのか、などと具体的な質問をいただきました。こういう問いかけもうれしいですね。
二つ博士号をお持ちの神学部の先生にも、私の方から「このテーマ、結論をどう考えればいいのでしょう?」と質問すると、「う〜ん、やっているテーマが重たいですからね、宿題にさせてください」と言われました。
確かに、地域研究だけにとどまるならば、これで済むのですが、少なくともキリスト教が関わる以上、その神学的意味を問わなければ、中途半端です。そして、今回も発表の最後に「ここにいらっしゃる先生方に教えていただきたいんです。私にとっては、または、この問題に関心を寄せる人々にとっては、神学上の難題だと思うんですが」と結びました。顔を上げると、「みのもんた」先生やダブル・ドクターの先生が、にこやかに笑顔でうなづいていらっしゃるのが見えました。
とにかく、問題意識がある以上、内的動機付けとしてリサーチを続ける原動力はそこに求められるのですが、結論が決まっているわけではないので、どうも落ち着かないところです。その点、ルター研究やキリシタン研究やキリスト教圏内の有名人物のような、評価がある程度定まっていて、文献資料も整っているテーマの方がやりやすいし、研究体裁としても「格好がつきやすい」でしょう。
一方で、「みのもんた」先生がおっしゃったように、「とらわれなく自由にできるからいいじゃないか」という見方もできるわけです。その「自由」というのがねぇ、払うべき対価も大きいんですよ。
「みのもんた」先生との会話で一つ楽しかったのは、「無教会の人は、組織がないから、個人の結びつきを大切にする。それだけに、情が深い」というお話でした。私が、無教会のあしながおじさまから、63冊もの本、特に、『矢内原忠雄全集』と『土曜学校講義』をそっくり送っていただいたことをお伝えすると(参照:2008年12月24日付「ユーリの部屋」)、「だけどそれ、すごいねえ」と喜んでくださいました。
ぴょんちゃんは、お利口にして待っていました。お土産の苺大福、冷蔵庫に入っていますよ。