ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

歴史に‘if’はない?

十数年前に、神学部のある教授との会話の中で、「歴史に‘if’はないけれど、『もし』と言ってよいならば」という表現が出てきたことを覚えている。会話内容は忘れてしまったが、今でも、前半部分の出所が気になっている。このブログ記述の段階では、確証がない。
最初に私が直感したのは、昨年入手してまだ読み終わっていないヘーゲルかしら、と(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130308)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130311)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130331)。日本語のネット検索では、英国の歴史家E.H.カーらしい、という説がある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140922)。「歴史が判断する」という表現と同様(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090416)、唯物史観マルクス主義思想家など、どちらかと言えば、左派が好む傾向にあるという印象がある。
もう一つの流れとしては、キリスト教思想の中に、全ては神の御手のうちにあるのだから、起こったことは全て神の御心であり、「もしそうでなかったならば」などと考えることは冒涜だ、という考え方があったと記憶する。いささか原理主義的発想でもあるが。
また、イスラームの運命論も思い浮かぶ。高度なムスリム思想家の発想から知ったのではなく、もちろん、大衆レベルの個々人のムスリムが、そういう考えを口にし、行動していることを知ったからだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121111)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140704)。

さて、出所が不明瞭である以上、この問いをどう考えるべきか。私が思うのは、‘if’という仮定や想像をする知的分析の過程が重要なのではないか、ということ。ヒトが発案し、ヒトを動かし、ヒトが歴史をつくってきたのだということだ。その背景や状況や理由を問う検証作業なしに、過去および現在のあるがままを、受け身に流してはならないと思う。責任逃れは許されない。
という当たり前の平凡な話に落ち着いてしまったのだが、パピ本を読んでいて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140923)、そんなことをふと思い巡らせた次第である。