ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

4月に入りました

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Lily2 ‏@ituna4011 14m
"Myths and Facts: A Guide to the Arab-Israeli Conflict" by Mitchell G. Bard (http://www.amazon.com/dp/0971294569/ref=cm_sw_r_tw_dp_pwwwrb101V38V …) arrived here today.

ツィッターの上記文献ですが、著者のミッチェル・バード博士はダニエル・パイプス先生の良き友人のようで、共同執筆もありますし、考え方はよく似ています。それにしても、よく次から次へと書けるものですね!バード博士の著作は、これで三冊目の購入。最初は『イスラエルは生き残るだろうか?』を、それに味をしめて次は『アラブ・ロビー』を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130122)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130207)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130308)。二冊ともパイプス先生がウェブ上で紹介されていたので知ったのですが、読んでみると何ともおもしろく、日本の一部の中東研究者などには知られていないかもしれない、(しかし私のような一般人には案外に頷けるところが多い)内容を多分に含んでいるものです。今回届いた本も、少しずつ(多分笑いながら読めることを)楽しみにしています!
もう一つ届いたのが、シンガポール聖書協会の会報。マレーシア聖書協会も同じですが、ちょっとした気まぐれで、たまに突然、送られてくるのです。ただ、さすがにシンガポールだけあって、戦略的な立脚点を充分に活かし、英領植民地時代の宣教師団の祈りと努力がしっかりと実を結んでいます。マレーシアと比べると、出発点は似たり寄ったりだったはずなのに、キリスト教の情報量も活動の幅も、大きな相違が見られます。それに、日本がいくらアジアの盟主気取りでいたとしても、中国やラオスなどへの聖書翻訳・頒布活動では、日本のキリスト教は、海外への資金援助と代表者の表敬訪問は別としても、実質的に大きな遅れを取っています。そういうことが如実にわかるのが、シンガポール聖書協会からの冊子です(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070710)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070713)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070807)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070928)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080307)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080320)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080329)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080910)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090130)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090315)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120320)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120707)。
華語と英語が中心の二言語使用ですが、世界情報もエッセンスが盛り込まれていて、非常に参考になります。パイプス先生が気に入ったというトルコ航空http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130214)の大きな広告まで入っていて、国際情勢を間近に知ることができます。一国民として享受できる日本情報、一訳者としてのダニエル・パイプス情報、リサーチ関連でのキリスト教シンガポール情報およびマレーシアのムスリム世界情報を合わせれば、極東アジアの一員としては、かなり上出来の情報網ができあがるのではないかと一人悦に入っています。
例えば、イスラエル発の情報としては、イスラエル聖書協会が初のヘブライ語アラビア語聖書を完成させたとの由(p.16)。また、過越祭の食事について、ユダヤ系聖職者の男性がシンガポールのバイブル・ハウスに立ち寄って説明されたとか(p.17)。もしかしたらメシアニック・ジューの方なのかもしれませんが、ともかく、マレーシアでは1957年の独立後、表向き存在しなくなったと言われている(しかし、マレー人のムスリム学者に質問したところが、「いや、少数だけどマレー半島にも住んでいるよ」という返事が返ってきたことはある)ユダヤ共同体に比べて、シンガポールでは大っぴらにユダヤ人として居住ができる点、やはり違うと思います。
見逃せない点としては、タミル語訳聖書の記事。マレーシアとシンガポールのタミル系教会の聖職者達が集まって、300年記念祭を2013年2月10日に、私もリサーチで何度かお世話になったトリニティ神学院で開催したとの由(p.21)。1711年に初のタミル語訳聖書ができたそうですから、1860年だと言われている日本語訳聖書の初出版はかなり遅れていると言えそうです。
このように、アジアの聖書翻訳にはたくさんの魅力や盲点があり、そういう時、紆余曲折あれど、マレーシアの聖書翻訳の諸問題に23年ほど関心を寄せ続け、曲がりなりにも研究発表を続けてよかったと思うのです。こういうテーマは、付け焼き刃では決してできません。見る人が見れば、すぐにわかるからです。
ここで約束通り、先週の濃厚な一週間の記録を簡潔に(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130331)。(今日は一日分のみです。続きは明日以降。)

3月25日(月)in 名古屋
午後久しぶりに名古屋へ。家庭裁判所で父の遺言書の検認があるとの連絡が入ったため。弟は欠席するとの連絡あり。家裁のある丸の内周辺は、こんなに道路が広かったかとびっくりするほど広く、四車線まであった。桜がほぼ満開で、来し方行く末を思わされた。
その後、地下鉄に乗って、生まれてから12歳まで住んでいた名古屋市内の元自宅跡周辺を夕方までぶらぶらと。道路名も住所も番地も変更されたのみならず、子どもの頃一緒に遊び回り、学校へも一緒に通ったはずの近所の家々は、取り壊されたか、残っていたとしても誰も住んでいない気配で、大変に驚いた。何年も前に父から電話で、家を壊して駐車場にしたとは聞いていたのだが、父がいなくなったのみならず、家までなくなったことの心理的意味合いは、実物を目にすると、一種衝撃的でもあった。アルバムには写真が残っていて、家族5人のうち4人は健在で、さまざまな思い出も記憶に鮮明だが、人が安心して前を向いて生きていくためには、根っこがしっかりとしていることが基礎条件なのだと思う。
近所の同世代の子達やおばさん達は、今いずこ。昭和40年代初期としてはモダンなマンションに住んでいた一人の女の子は、途中で家族経営のビジネスが倒産したらしく、18歳の時に、名古屋港で仲間とお酒を飲んで遊んでいるうちに、車ごと海に沈んで溺死したと新聞に掲載されていた。一緒に遊んでいたのに、運命とはかくも冷酷なのかと、当時も今も思う。つまり、自分が生きていること自体、大変に幸運でありがたいことなのだ。その同じマンションの隣室に住んでいた男の子の場所も、びっくりするぐらいゴミが散乱していて、一体全体、どうするとこうなるのか不思議だった。幼稚園は一緒に通い、お坊ちゃんだったので、うちの母が冗談で「大きくなったらユーリちゃんをお嫁さんにもらってね」と勝手に許嫁候補にしていたぐらいだ。ミニカーやお医者さんごっこで遊ぶために、私は一人で「○○くーん、あそぼ!」と声を掛けて中に上がらせてもらい、二階の贅沢な部屋で一緒に時を過ごしたものだったのに。
残っている家は、大抵、改築増築している。でも、道路が非常に狭いことにも気づき、私達が郊外に家を建てて引っ越したことの理由は、これでよく納得できた。
10分ほど歩くと、妹と私が通った聖心カトリック教会と幼稚園があり、ここは相変わらず広く大きな敷地で、そのまま。これがありがたく、今の私があるとすれば、それはこの幼稚園での教育のおかげなのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080127)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080903)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090116)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091023)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110426)。
父が結婚して独立するというので、父方の祖父が一生懸命に土地付一戸建ての家をと探してくれたのがあの家だったそうだ。まだ戦後のごたごたが解消されたとは言えなかった昭和40年の当時としては、庭付きお風呂付きで、水洗トイレまであったのだから、週に二三度、銭湯へ通い、月に何度かし尿くみ取り車が来ていたご近所の中では、相当以上に恵まれていた方だったと言える。ところが、(うちよりもっと裕福で恵まれている)と思っていたはずのモダン・マンションに住んでいたR子ちゃんやH君の家があのようになったとは…。だから、私もこれから一生懸命に健全に生きていくことが、子としての務めであり、一国民としての義務なのだと痛感した。
家や近所の人が消えてしまっても、今後もずっとあの幼稚園だけは残っているだろうから、何かの折りに立ち寄れればと願っている。そういう場があることが、人には重要なのだ。
(以下続く)