ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

いつまで‘先進国’気分なのか?

2012年3月29日付のツィッターからの転載です。

https://twitter.com/ituna4011
29 MarLily2‏@ituna4011


"Economic Origins of Antisemitism: Poland and Its Jews in the Early Modern Peri..." (http://www.amazon.com/dp/0300049870/ref=cm_sw_r_tw_dp_tKYCpb1429GP6 … via @amazon) arrived here today.

入手してから5ヶ月も経ってからようやく目を通せました。あれから随分、私もポーランドポーランドユダヤ人やユダヤ教イスラエル観が深まったというのか広がったというのか...。
この本の著者とは、確か二回、京都でお目にかかったかと思います(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100810)。
『反セム主義の経済的源泉』とでも訳せましょうか。16世紀から18世紀までの、西欧に比して遅れを取っていたポーランドのお話。ポーランドには、全ユダヤ人口の約半分が居住していて、ポーランドの1割を占める住民だったのに土地の所有権もなく、反宗教改革カトリックを受容した社会のため、ユダヤ教に対する偏見や差別が続いていたなど、おなじみの事例が続いています。基底に流れるテーマは、遅れていたポーランド社会なのに、近代化に失敗した責任がユダヤ系住民のせいにされた、という悲痛な叫びのようなものだと解しました。
ポーランドと言うと、日本ではショパンヨハネ・パウロ二世のおかげで文化的に概ね良好なイメージのようですが、また違った側面を学ばされたという...。
しかし、本書にも書かれているように、ユダヤ系の人々は、差別や迫害を経験していても基本的には楽天的で、自分達は選ばれた民なのだから最終的には何とかなる、という姿勢だったようです(pp.33, 36,127,182)。
最近では、日本で反ユダヤ主義を防ぐ目的でなのか、「選民思想」という記述そのものに反対する意見もあると聞きました。ただ、私個人の考えは違っていて、ユダヤ人の宗教伝統では選民思想を有している、と聞いたからといって、それがすなわち非ユダヤ人である自分に対する敵意だとか差別だとは思いません。
むしろ、どの民族も、不備や欠陥を備えた存在だとはいえ、ある程度は自分のルーツに誇りを持ち、自己意識が強くなければ、(それが「(イスラエルの)神に選ばれた」という自意識であれ伝統であれ)国を守れないし、末長く存続できないのではないか、と思うのです。特に、この頃はとみに感じるところです。
日本では、第二次世界大戦中、神道軍国主義ファシストの影響を強く受けたために、敗戦後の痛烈な反省から、そういう誇りを持ってはいけない、近隣諸国への差別はいけない、というような言い方が学校教育でもなされてきたような感覚が、私にはあります。愚かなことに、私も戸惑いながらも、文字通り実践しようと試みてきた時期がありましたが、その内実はともかく、今振り返ると、何かが根本的に間違っていたと思います。
「差別」というのは、自分以外の人々の生存権の否定や剥奪を強いること、同等の実力や資格や条件を備えているのに、客観的には証明できない一方的な理由で、享受させない環境があるなどのことを指すのであって、自分が被った不利益を不愉快に感じる理由から「差別だ!」と理屈をつけて騒ぐのは、どうみても感じのよいものではなく、両者に益をもたらさないのではないか、と思います。しかし、以前の私にはそれがはっきりと認識できなかったところがあり、無理矢理にでも相手の言い分を飲み込んでしまい、後になってから相手がいばりくさっているのを知ってほぞをかんだ経験があります。
ユダヤ系の人々が、世界の至る所における反ユダヤ主義に対して常に非常に敏感で、少しでもその兆候に気づくやいなや、メディアを通していち早く反論の声を上げるのは、時にやり過ぎと感じられることが仮にあったとしても、さまざまな見解があることを踏まえた上で、なおかつ学ぶべき点が多いのではないかと私個人は思っています。反ユダヤ主義に関しては、情報収集と事例の文書化がきっちりできているそうで、そこが、いざという時の団結力や国力の促進におけるユダヤ・パワーの源泉の一つなのだろうとも思うのです。
かつての日本も、そういうきちんとした面があったのではないかと思うのですが、「均質度の高い日本社会」が「閉鎖的」で「外に向かって開かれていない」という批判を真に受け過ぎて、どうやら、性善説のお人好しというのか、「弱者にまなざしを注ぐ」「自分だけが正しいと思わないようにしましょう」「粘り強い対話で相互理解を」「話せばわかる」みたいな無邪気さが、学校教育やメディアを通しても蔓延しているようです。
ここ8ヶ月以上、パイプス先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120821)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120822)の広範に及ぶ諸活動を拝見していて、時々、その活力とエネルギーと前向きな姿勢、決してあきらめない態度をうらやましく思うことがあります。もっとも、異なる立場の人々から、あれほど非難囂々浴びてこられた方なので、相当、悔しい思いもされているでしょうし、プライベートでは治安の確保など難しい面も多々あることでしょうが、いかにもアメリカらしい自由闊達で個人主義的な環境で、のびのびと個性と実力を発揮されている点、私はすばらしいと思っています。
それに、いろいろ過去の映像や文章を拝見していると、全ての見立てが100パーセント正しかったわけではないとしても、長期的に見れば、結果として(確かに先見の明がある)と思わされることも多いのです。そこが専門家の専門家たる所以なのに、自分と見解が異なるからと言って、すぐに相手を叩きのめそうとするのは、子どもっぽいと思われます。
少なくとも、さまざまな本を一生懸命に読み続け、いつでも視野を広げ、他者から学ぶ姿勢を保っていなければ、とても生き延びていけません。日々のちょっとした選択における判断でも、その積み重ねが人生を形成するとすれば、ゆめおろそかにはできません。そういう緊張感が日本社会から抜けてしまったような、それが国力低下につながっているような気がしてなりません。いつまでも‘先進国’気分でいる人々を見ると、何だか脱力感を覚えます。