適度な距離感が大切
昨日の補足です。
2007年3月上旬にイスラエルに滞在していた時、いささか場違いなプールに連れて行かれ、他に選択肢もなさそうだったので、そこに15分ほどいた経験があります。同行の人達も皆、その怪しげな雰囲気に閉口していたようで、「もう嫌だ」とさっさと上がってきました。つまり、イスラエルにもそのような場があり、ガイドさんが誘導したということは、過去の日本観光ツアー客の中に、そういう場を喜ぶ人々も含まれていたという証左でしょう。しかし、我々は一様に違いました。気取るわけじゃありませんが、誤解なきよう、事実として申し添えます。
で、その場違いなプールの何が印象的だったかというと、私と一緒だった母娘組の娘さんの方に話しかけていた、一人のイスラエル人のおじさんのことです。彼女はすごくいやがっていましたが、ちょっとしつこい感じで、日本のあるキリスト教系団体のことを「あんたも、その筋かい?」と尋ねていたのです。もちろん、我々のグループは、誰も一切関係がありませんでした。私達の場合、ごく普通の草の根主流派です。
私みたいなタイプだと、そういうおじさんには、話しかけられても最初から一切相手にしないし、わからないふりをして黙って無視。お母さんもおろおろしていたのですが、まだ若い彼女は、何となく相手にされてしまいがちな曖昧な態度を取っていました。
そのおじさん曰く、名称も挙げたその日本のキリスト教系団体は、「イスラエル大好き人間」で、年に一度以上はイスラエルに集団で訪問するのだとか。そして、何やら、イスラエルのことなら何でも賛美するらしく、一方的に傾倒する様子が、地元のイスラエル人にとっても、喜ばしいというよりは、いささか異様というのか滑稽に見えるのだそうです。
短い時間でしたが、記憶に残っているエピソードとしては、そこまでです。
日本国内でも、その団体のことは、他のキリスト教の教派から教義上の批判があったことを、学部時代から知っていました。髪型など目立つ特徴があるそうですし、盛んに出版活動もされているとか。ただ、異端とまで言えるのかどうかは何とも不明で、会員には無教会系の出身者も含まれているそうですし、伝統的な日本古来のあり方を賛美する保守的な考えというのも、それはそれで悪くはありません。言論や信教の自由は、他に迷惑をかけなければ守られるべきだからです。
ただ、私が注目したいのは、一方的にある国に傾倒し過ぎると、当該国の人からでさえ、喜ばれるというよりはおもしろがられるという現象です。もちろん、当事者達は口を極めて反論するでしょう。そんなことはない、自分達は真っ当に受け入れられている、と。
しかし、なぜ注目を浴びるかと言えば、高く評価されているからというよりも、行き過ぎだとか、片方だけを盲目的に持ち上げるばかりに、他のネガティブな要因を無視したり、勝手に切り捨ててしまう傾向が目立つからではないか、と思うのです。バランスに欠ける点が、奇妙さを生むのでしょう。
さて、ここから派生して、昨日の話題の続きに戻ります(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120803)。パイプス氏に関して綴ったブログの内容で、私に対する反論がないのは事実ですが、それにはいろいろな理由が考えられます。
一つには、何と言っても私が無名なので、影響力がほとんどなく、無害であること。
二つ目には、専門外のことは、ある程度知っていたとしても、あえてぼかして書くようにしている、つまり、ペダンティックな書き方を避けるよう努めていること。(批判を浴びやすい文章は、専門家ではないのに、「自分はここまで知っている」と見せびらかしながら書いていることも、一要因ではないかと思います。)
三つ目には、できる限り、批判や異なる立場の文章も読むようにしていること。そして、いろいろな映像から、自分の見たまま感じたままを、率直に綴るように努めていること。それによって、一方的なプロパガンダや広報活動にならないように、模索しつつ歩を進めてきたこと。
四つ目には、知り合いのイスラエル人の先生にも、事前に相談してあること。(その先生は、「私はあの人とは考え方が異なる」とはっきりおっしゃり、「あなたは自分の身を守ることを第一に考えなさい」とまで助言してくださいました。しかし同時に、「もう断りなさい」「やめなさい」とも一切おっしゃいませんでした。つまり、立場が異なるとはいえ、先方の知的背景や学術業績の高さを認めていらっしゃるので、それは私にとっても有益だということを、暗に示唆されたと理解しています。)
五つ目には、マレーシアに関する私なりの20年以上の経験を踏まえて、パイプス氏に共感する面があってのことなので、それはそれとして、認めざるを得ない論拠が実証できること。(基本的には、自分の経験と資料に基づき、勘違いでない限りは、自分の枠内での事実に即して書いているつもりです。)
よく言われる、クリスチャン・シオニストがイスラエル・ロビーの優勢な味方だということは、少なくとも私には一切該当しません。私の考えは、以前から度々書いているように、宗教的情熱からではなくて、もっと常識的というのか、日本で普通に教育を受けた層の一人として、建国当初から戦争の絶えないイスラエルの安定した存続と発展を願うことが、ひいては日本にも益となるだろうという素朴なものです。しかもそれは、反イスラームだとか反アラブだとかの、単純な二項対立には結びつきません。アラブ諸国やムスリム世界全般にも、解決すべき諸問題がたくさんあるだろうことは、一目瞭然だからです。
だから、昨日のブログで言及した著者達のことを、ダニエル・パイプス氏が執拗に(客観的に見ればいささか矛盾も含めながらも)文筆活動で非難し続けていることについては、彼の強い個性および独特の感受性の問題であると考えています。前にも書きましたが、私にとっては、本当に紳士的で優しく、ちょっとかわいいおじさま学者で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120528)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120607)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120627)、昔の本などは、大真面目に書いているものの、何だかユーモラスで笑わせられる文章が多いのです。「先生って、本当ににおもしろい方ですね」と書き送ったら、「あんたもだよ」。訳文を送りながら、「この内容、大いに笑わされました」と書き添えたこともあります。
2008年のフーバー研究所での対談映像でも(http://pub.ne.jp/itunalily/)、ご自身で「私的には、自分はかなり楽天的で快活ですけど、中東やイスラームのことになると、悲観的になるにはいい職業ですね」と皮肉っぽく早口で返答されていました。これは、正直な回答だと思います。
むしろ私には、上記の件に関しては、彼の内面にある深い恐怖心の裏返しのようにも感じられます。イスラエルを守ろうとするあまりに忠誠心を疑われまいと、よき米国人たらんとして人の何倍も勤勉に励み、アメリカ的価値を擁護するのに必死な印象さえあります。確かにちょっとしつこいと感じられることもありますが、恐らくそれは、民族的背景の圧倒的相違と文化的差違から来るものでしょう。それなのに、同じような経験を有しない私までもが、一緒になって非難に回っていたとしたら、それこそ上記のエピソードのような滑稽さを生むこと間違いなし、です。
ここ2週間ほど、パイプス氏との交信は自主的にお休み。こんな長い休止期間は、今年1月半ばからのメール交流で初めてのことです。先方はお忙しいので、その方が楽なのでしょうか、特に何も音沙汰なしです。
既に長崎旅行前から、訳文は10本ぐらいできていますが、提出はペンディング。実は時々、自分でもわからなくなることがあります。自分の用事をほったらかしてまで、長時間、没頭した結果、果たして、日本語訳にどれほどの意味があるのだろうか、と。
以前から繰り返しているように、私が訳さなくたって、専門家や興味のある人達ならば、さっさと英語で読んでしまいますし(私だってそうなのですから!)ドイツ語やスペイン語やフランス語などの参照さえ、映像では別の側面が垣間見えるので役立つ、という位置づけです。つまり、この種のテーマを英語でさえ読めないならば、最初からいい加減に口出しすることは控えた方が賢明なのではないか、ということです。
それに、2003年秋頃、香港の“Asia Times”でもそうだったように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120729)、パイプス言説は、アジア向きとは言いがたい面が多いかと思います。日本の場合、その他のアジア各国とは状況はやや異なりますが、それでも日本在住のユダヤ人が約1000人ほどとか。しかも極めて控えめに静かに暮らしている方達がほとんど。イスラーム問題についても、欧米とは異なった独自の研究展開があることは事実。
訳業の代価としては、金銭面では、正直なところ、あまり見返りを期待していません。つまり、稼ごうとか有名になろうとか、そんな目的ではやっていけないわけです。
究極のところ、目指す到達点は何で、どこにあるのかが、自分でもよくわかっていないのです。確かに、アメリカでも日本でも、パイプス氏が批判や非難をさんざん浴びている面は最初から気になっていましたし、それに対する私なりの立ち位置というものも定めてはあります。しかし、繰り返すように、だからといって無視するには惜しいような、たくさんの輝かしい知的部分が大きく、私にとって刺激になり勉強になるというのでお受けした次第。パイプス氏にとっても、自分の書いたものが、著書も含めてほとんど日本語になっていなかった昨年までの経過からすれば、今年前半になって、偶然のきっかけでようやく萌芽の兆しがあり、これからが楽しみだ、ということでしょうか。日本に対しては、中東外交政策が異なるので、それほど大きく期待はしていないものの、私に関しては、適当に良好な関係さえ続けていけば、小さなウィン・ウィンの取引きではあります。
ただ、一つ難しいと感じているのが、例えば、1986年の日本滞在中に「イスラエルに対する敵意の壁を感じた」とか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120126)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120528)、中央公論やフォーリン・アフェアーズから翻訳者権の許可を取る手続きでも「あの人達から批判されないことを希望するよ」とか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120531)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120604)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120608)、実際には全く何ら問題ではないのに、単純に文化や社会の相違から来るものでも、何だかネガティブに受けとめてしまう心的傾向です。だから、当時から私が、それこそ橋渡しになって、「先生、それは違いますよ」「なんか変な反応ですねぇ。実際にはそんなことありませんよ。日本では大丈夫ですよ」などと、きちんとデータを根拠として提供しながら、一生懸命、‘説得’に努めた次第。
もう一点。「イスラエル批判=反ユダヤ主義」では必ずしもないのに、どうやら混同されているらしいとは、昨日の著者が懸命に述べていることです(pp.343-359)。そして、「新たな反ユダヤ主義」みたいに繰り返し攻撃をしかけてくる、とも。私がわからないのは、意図的に戦略として行使しているのか、それとも、深い心理的なトラウマのようなものに基づく、ほとんど理性で制御しがたい無意識の感情的な反応なのか、ということです。
米国内での個人攻撃は、できれば日本に持ち込みたくもなく、影響を広めたくもありません。私だって、データ情報提供とはいっても、公開されているものばかりで、スパイ行為でさえありません。基本的には、この日本語ブログで書いた通りです。日本での経験も、個人名すら一切渡してありませんし、パイプス氏から聞かれたこともありません。
ただ、上記のイスラエル人の先生の助言によれば、「翻訳とはコラボレーションを意味するのだから、そこは気をつけなさいね」みたいな話があり、悩ましいところではあります。一つだけ申し添えるならば、昨日紹介した本にも、確かに説得力はあるものの、実は(それは解釈が違うのでは?)と私でも思うところが幾つかあります。
ともかく、日本の落ち着いた静かな雰囲気は、是非とも保ちたいものです。