ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

話題となった書を読んだ感想

ツィッターからの転載です。

https://twitter.com/ituna4011


17h Lily2‏@ituna4011
イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策 1 』ジョン・J・ミアシャイマーhttp://www.amazon.co.jp/dp/4062140098/ref=cm_sw_r_tw_dp_eLPgqb047P1BS …)が届いた。早速ざっと目を通したが、主張そのものは筋が通っていて、よくわかる。このような本が出版できる点、米国の言論の自由は確かにうらやましい。


17h Lily2‏@ituna4011
名指しで批判されている人々の数名のことは、この半年ですっかり私もなじみになってしまった。一介の日本人の立場なので、米国の外交政策については、日米関係以外、口出しする資格がない。ただ、イスラエル批判が許されない環境だとしても、ムスリム圏の少数派に焦点を当てると、話が逆になる。

上記の本は、2007年に出版され、アメリカのみならず、日本でもかなりの反響があったようですので、今更読んでいては出遅れもいいところでしょう。
実は、著者お二人に対する反論の一部について、中身を読まずに先に訳文を出してしまったことの埋め合わせです。
感想としては、噂には聞いていたものの、(そこまでしていたのか)という嘆息のような暗い印象が第一。と同時に、著者達も基本的にイスラエルの存続権と国家存立の正統性を認めており、ロビー活動にはなんら違法性もないどころか、むしろ積極的に公開する姿勢があり、活動の意図そのものは心情的には理解できるとしている一方で、国益や地域の安定という観点からは、それはやり過ぎではないか、逆効果ではないか、という意見提出だと理解しました。また、ロビー団体は、表向きはそう言っているが、実際には事実としては違うということも率直に書かれてあり、その意味では学ぶところが多くありました。それに、米国内よりも、むしろ当事者のイスラエルの方が、当該問題に対して、見解の多様性が許されているらしいです。
例えば、中東地域研究に対して、連邦政府からの資金援助を削減するか、政府が監視するよう、ある法案を通そうとしたところ、下院は通過しても上院はだめだった、というくだりも(pp.328-330)、その結果については、アメリカの言論思想の自由の一端が表れていると思います。また、イスラエル・ロビーが主要メディアのイスラエル報道を監視し、それに影響を与えようと懸命になっているのは、実際には主要メディアをあやつることができていないからだ(p.308)との由。よく問題にされる、圧倒的なイスラエルの軍事力でパレスチナ・アラブ人を多数殺害しているのに、自らは道義性の高い国だと見せようとしているとも、隠さずに書かれてあります。
私自身は、日本の立場でしか見ておりませんし、非常に難しい問題だとは常に痛感するところです。ただ、この本を読んだことは、自分にとってマイナスだったとは思いません。誰も私に対して、本書の日本語版を「読むな」とは言えないでしょう。それに、一方の立場からだけではなく、異なる観点も確かに存在するのだということは、外国人として知っておく必要があります。
いろいろな過程があったとはいえ、比較的短期間に国造りを進めていった結果、さまざまなひずみが生じているという部分もあるのだろうと思います。その一方で、確かに、父祖の地に戻った途端、これだけのエネルギーを秘めていた人々だったのだということを世界に実証しているわけで、もともとその地に住んでいたアラブ系その他の人々にとっては、それをまざまざと見せつけられると、部族意識や大義やメンツなど、いろいろな意味で屈辱感を強いられるのでしょう。実に難しい、の一言に尽きます。
他方、米国で、ここまで非難を浴びながらも、半ば強引に精力的にロビー活動をたゆまず進めていく動機および背景を探るヒントが、本書の末尾に示唆されているように思いました。

ユダヤ系米国人が持つ根深い恐怖感が明らかになったのは、02年春に世界中でイスラエルが激しく批判された時である。(p.352)

・「ユダヤ人共同体は、周囲を熱狂に取り囲まれて身動きできない状態にある。そしてそのような状態によって大惨事が引き起こされる可能性を秘めている。そこには知的なコントロールなどは存在しない。死という言葉が、すべてのユダヤ人家庭を支配している。恐怖心は高まるばかりだ。理性などというものはどこかに行ってしまった。不安感を持つことが本物のユダヤ人であることの最高の証となっている。不正確で煽動的な表現に満ち溢れている。すべてのユダヤ人がホロコーストのイメージを身近に感じている。」(p.352)

この言述がどの程度、事実を反映して的確なのか、私には何とも言えません。もし、ある程度は該当するのだとしたら、ますます、そのような体験を民族史として持たない我々の側も、感覚として知り得ないのだから、そこは謙虚になって、慎重に留意して接する必要がありそうだと感じました。

常々思うのは、この種の騒動は、米国内で留めていただきたく、日本にまで持ち込まないでほしい、ということに尽きます。