ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ツィッター文を転載しました(3)

先程書いた、今日付けのツィッタ―を転載します。

・昨晩、カイロ人権宣言(1990年)を読み直す。今更ながら、改めて驚愕する。昨今の世界情勢を思うと、「先行きの見通しは明るくない」とおっしゃった先日の「先輩」の言葉が蘇る。そして今日、30冊以上の本の骨子をまとめて3年8カ月前に作った「イスラエルパレスチナのノート」を見直す。
←(後注:「ノート」については、2007年7月24日・2008年2月27日・5月7日・2010年3月31日・11月4日付「ユーリの部屋」参照)
・パソコンではなく、手書きのノートというのは、場所を取るが、やはり得難いもの。これからも、極力、アナログのよさをフルに活用したい。危機を察知しても、周囲が(鈍感さのため?あるいは、妨害しようとして?)否定してもみ消す場合もある。マレーシア情勢分析にも、そんなところがある。
・聖書にも暴力性があるとか、キリスト教も戦争加担の歴史だとか、表面的には確かに。が、本当の専門家ならば、そういう軽い発言はしない。私の場合は、幼少期のカトリック教育が今も根底にある。だから、本当に小さなテーマでもあるが、きちんと勉強を積み重ねて、情勢に右往左往しない自分でありたい。
カトリックというと、「貧民教育?」と尋ね返してくる人がいる。本当に、日本近代史を勉強してから発言していただきたいものだ。クローデルなどは、その点、観察記録を残してくださり、ありがたい。非カトリックの私だが、繰り返すように、ヴァチカンを敵に回して得することは、何もない。教会も同様!
←(後注:2010年12月19日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101219)参照)
・でも、基本的には聖書だと思う。まずは聖書から読む。古典だから、そんなに簡単にはわからないが、そこがいいのだ。教会に通っただけでは、わからないのではないか。今夏、ひょんなことから聖餐について調べていたが、その経験が今の判断にもつながっている。地味でもそういう人々を増やすことが大事。
←(後注:「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110603)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110605)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110808)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110809)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110818)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110824)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110825)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110826)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110827)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110828)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110902)を参照)
・今年の2月、フランスのカトリック巡礼旅行に同行させていただいた。その事実だけで、「カトリックですよねぇ?」と聞いてきた神学部の先生がいた。その単純さが極めて憂慮される。実際には、プロテスタント数名に加え、無信仰だと自己紹介した人も含まれていた。これこそ、エキュメ二ズム精神の具現。
←(後注:2011年2月24日付ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110224)を参照)
・つまり、言っていることとやっていることが、バラバラで矛盾しているのだ。昨今の日本の国力低下は、こんなところにも表れている。学生運動の余波がまだ続いているのか?全くハタ迷惑なことだ。ただし、同世代でも、家の事情で早くから働き、20代後半になってから神学部に入った人もいる。
・また、「先輩」のように、世の流れを無視して、地味な大学に真面目に通い、一人で猛勉強して外交官になったような人もいる。先日、近くで拝見していて、(怖いもの知らずで、すごい度胸だわ)と思った。実務経験者だから、現実を直視し、自分に与えられた枠をフル活用して、必要なものを取ってくる。
・というわけで、ここ数日の間に、4冊の英語書籍を注文してしまった。届くのは、早くてもクリスマス後。年明けて来るのもあるらしい。欧米の諸大学における中東研究の問題点、そして、石油資金によるイスラーム学の興隆で、本来の古き良きキリスト教の自由と伝統が消滅しかかっていることへの懸念。

(転載終)

これは、本来、自分の勉強ノートの余白にでも書くような、単なる独り言に過ぎません。でも、これを積み重ねることで、モヤモヤが晴れ、少しずつ明確になってくるものもあります。
ところで、マレーシアとシンガポールでの勤務の後、仕事で数年、滞在されていたウィーンで、今クリスマス休暇中の南メソディスト大学のハント先生。エッセイのような文章をたくさん書きためていらっしゃいますが、今回のアメリカ人教授のご講演の件でも、私にとっては、理解の助けとなりました(参照:2011年12月21日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111221)。これでやっと明快になった点も幾つかあります。
日本に紹介される神学にせよ、学者にせよ、紹介者の力量や判断能力が問われるものだ、とつくづく思いました。国際政治は大変に重要ですが、「政治の神学」のような枠組みをきっちりと提示しないと、キリスト教全般に関して、学生さんや卒業生や一般人を迷わせることになりはしませんでしょうか。ともかく、対極にある潮流を同時に提供しないと、本当に見誤ってしまいます(参照:2011年8月19日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110819))。所詮、日本がその程度だと思われて軽く扱われているならば、それまでですが。
南メソディストと言えば、日本では関西学院大学がその流れにあるかと思われますが、現在、どこまでその精神が体現されているでしょうか。1990年代のマレーシア滞在中、クアラルンプールのウェスレー・メソディスト教会には、たびたびお世話になりました(参照:2007年7月14日・2008年9月3日付「ユーリの部屋」)。普段は、マレー人学生を相手に政府プログラムで仕事をしていたので、マレーシアの難しい社会文化状況が、教会に行くことにより、肌感覚でわかりました。
マレーシアのメソディスト教団は、学校教育でマラヤの近代化を強力に進めたという意味で、ちょうど日本と平行線にあります(参照:2008年2月26日・3月21日・9月10日・2009年5月15日・2011年9月26日付「ユーリの部屋」)。もちろん、相互に変容を遂げているのは自然の成り行きとしても、もう少し、研究者の間で基本的な知識と理解が共有されていたならば、おかしなことにはならないのではなかったか、と残念でなりません。