ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ツィッター文を転載しました(4)

昨晩から今朝方にかけて、考え事をしながらツィッターに綴っていたら、見事にスペルミスをしてしまいました。あらら!訂正した上で、こちらに転載いたします。

itunalily65Lily(http://twitter.com/#!/itunalily65
・マレーシアの諸問題から、ムスリム・クリスチャン関係や宗教間対話のジャーナルを、ここ10年ほど、いろいろ見てきた。自分に合う傾向を持つジャーナルを吟味して、今日一つ購読を決めた。論文集を読むと、どの人が正直に、自己を偽ることなく、極力公平に綴っているかがわかる。そこが決め手だ。
・いかに自分がリベラルで寛容で、心広く誰でも受け入れているように振舞っていたとしても、現実問題として、片方しか見ていないならば、それは寛容でも何でもなく、単に、偏った態度に過ぎない。事実を公平に綴ることの難しさと同時に、その必要性と緊急性を思う。購読ジャーナルから学んだことだ。
・南メソディスト大学はアメリカのテキサス州ダラスに位置する。テキサスにはダラス神学校というかなり保守的なキリスト教を信奉するセミナリーがあるためか、ダラスと言うと、すぐに宗教右派とかネオ・コンとか選挙票のターゲットとされる福音派がイメージされがちだ。しかし、これも偏見と固定観念だ。
←(後注:「ダラス」のキリスト教については、2008年9月1日・2009年8月14日・2011年12月21日付「ユーリの部屋」参照)
・米国南部だから、東海岸よりは考え方が保守的なのはやむを得ないとしても、私にとっての南メソディスト大学は、日本の若いヴァイオリニスト達も留学するなど、音楽教育がまず連想される。キリスト教に関しては、保守とはいえ、開かれて柔軟な考え方も含まれ、思った以上に弾力性を感じている。
・リベラルだと自称すれば、いかにも優秀で寛大なイメージを抱く人がいるかもしれないが、20代以降、これまでの私の雑読体験などからすれば、米国で「リベラル」とは、必ずしも肯定的なニュアンスがあるとは言えなさそうだ。個人的には、かえって左翼思想などに執着し、独善的な印象もある。
・保守とは、必ずしも狭く囚われた思想とは言えない。むしろ、現実をしっかと見据え、伝統や来歴を踏まえた上で、進む歩を見極めようとする誠実さがある。「宗教的多元性(pluralism)は、相手に変化を求めると言う意味で、新たな‘imperialism’だ」という論説も英語で読んだ。
・「実りある対話のためには、いかに良き意図を持っていたとしても、包摂主義が、単なる恩着せであるかもしれないことを悟らなければならない」「多元主義者の主張は、知らないかもしれない現実の宗教的描写へと信条実践を植民化することだ」という。このような主張は、何故、日本であまり聞かれないか?
←(後注:「多元主義」については、2008年6月20日・2011年8月19日付「ユーリの部屋」参照。「マレーシアの多元主義」に関しては2011年2月2日・2月21日・2月25日・3月3日付の英語版ブログ“Lily's Room”を参照)
・宗教的多元主義の主張は、学問的には目立つので、邦訳を通して人々が引用を繰り返し、一見、主流であるような錯覚がある。しかし、沈黙している層の中には、不愉快な人々もいるはずだ。なぜなら、それが本人の信仰実践と合致するわけではないことを体験的に承知していて、内包矛盾があるからだ。
・マレーシアのリサーチをしていると、キリスト教がいかに嫌われているかという体験的印象ばかりを、繰り返し色塗りされているような思いがする。すっかりズィンミー・メンタリティだ。本来、どちらが問題をもたらしてきたのか。なぜ、一方的に犠牲になっている側を黙らせて、平気でいられるのか。
・とはいえ、今年もいろいろな方達から、「よいクリスマスを」という挨拶をいただいた。私にとっては、クリスチャンだとわかる人以外には使えない表現だ。でも、人々が光を求めている証左かもしれないと思い直し、少しは自信を持ってもいいかな、と。それでは皆様、よき主の御降誕日をお迎えください。

(転載終)

先程、ブリズベンのスシロ先生ご一家から(参照:2007年7月7日・7月10日・7月12日・7月13日・7月14日・7月26日・8月22日・8月25日・9月4日・9月28日・12月14日・2008年9月11日・9月12日・12月10日・2009年12月30日・2010年1月13日・1月18日・2011年1月20日・2月23日・9月30日付「ユーリの部屋」)、電子版クリスマスカードをいただきました。若いお嫁さんが相変わらずおきれいです。