ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

キリスト教の左傾化

キリスト教会への左翼思想の注入問題については(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141227)、2011年の春から夏にかけて、パンと葡萄酒の問題(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110605)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110614)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110808)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110809)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110826)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110827)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110830)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110902)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110911)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131103)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150315)やリマ文書(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110826)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110827)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110830)などの資料を調べていた時、ハタと気づいた。だから、どうしても齟齬を感じるのだ、と。
以下に引用するサイトは、もう数年前に目にしていたかと思うが、2007年当時はブログを始めて間もなかったこと、まずは自分の考えを文章化する作業に専念していたことから、あえて取り上げなかった。その後、独自にリサーチを展開したところ、以下の記述と見事に重複することを知った次第である。

http://christ-ch.or.jp/5_torinashi/back_number/2007/2007_04/2007_04_report.html


カトリック教会の左傾化 (第1回)
君が代」反対から「沖縄米軍基地」反対 そして環境問題


東京純心女子大学教授 澤田昭夫
(月曜評論平成12年5月号掲載)


プロテスタントに「告白教会」(Bekennende Kirche)といわれた部分もあったが、反ナチを標榜するものではなかった。ニーメラー牧師は戦後反ナチ抵抗者として英雄視されたが、彼は実は33年当時積極的にナチスを支持ヒトラーとの個人的確執のゆえに38年に投獄はされたが、獄中では特別優遇され、39年には国防軍に従軍を志願していた。


・ダハウの強制収用所に収監された2806名の聖職者の95%はカトリックプロテスタントは4%だった。


・1966年、「日本基督教団」は「戦責告白」を行い大きく左旋回した。「日基」は中核派の教会幹部たちによって、天皇制反対、成田空港建設反対、部落差別反対、資本主義反対、靖国反対などのいわゆる「社会派」路線に乗せられた。1969年秋には大阪万博(1970年)でのキリスト教館設置案に反対するゲバ棒、ヘルメット姿の牧師たちが大阪、東京で教団集会を「粉砕」した。


第二次世界大戦後のアムステルダムに147のプロテスタント諸教団代表が集まり、World Council of Churches(WCC)すなわち、ひとつの教会ではなく複数教派の連合体を結成したときは、まだ本来の宗教的息吹が残っていた


・ところでWCCは、アムステルダムの創立総会後、数年おきの総会を重ねているうちに本来の宗教的方向づけを失い始め、わが国の用語でいえば、教会派から社会派へと旋回し始めた。1954年のエヴァンストン(米国イリノイ州)総会では、「第三世界中心主義」(tiermondialisme)が、1961年のニューデリー総会では「社会変革」つまり革命が、1975年のナイロビ総会では「ゲリラ闘争」が、それぞれキーワードになった。ゲリラ闘争というのは、人種差別反対、反植民地主義反帝国主義に名を借りた革命運動のことで、世界中の教会から300万ドルを募ってアフリカ諸国のゲリラや世界中の親ソ反米闘争を援助することになった。70年代、80年代の東ティモール独立解放ゲリラ運動もWCCの援助対象になっていた。


・銘記すべきは、ソ連政府の御用教会であるモスクワ大主教区がニューデリー総会以来WCCに参加するようになったこと、KGBのスパイでもあったソ連のニコディム主教がWCCの変身に大きな役割を果たすようになったことである。彼は1968年ウプサラ総会の準備会議で「キリスト者世界革命に参加せよ」と檄をとばしていた。米国版『リーダーズ・ダイジェスト』誌がWCCの現状を報告したエッセイに「マルクスによる福音」(The Gospel According to Marx)という表題を付したのも、むべなるかなといえよう(1993年2月号)。この間に世界伝道協議会は消滅した。伝道は植民地主義と同一視されたからである。


・左傾エキュメニズムは、カトリック教会の左旋回(特に70年代初頭以来)も助長するようになった。その間にカトリックで展開された「解放の神学」(後述参照)がプロテスタントにも受容され、天皇制反対のイデオロギーに発展させられ、それがカトリックに再輸入される。さような現象の顕著な例は、東京カトリック神学院で広められている栗林輝夫教授の『荊冠の神学:被差別部落解放とキリスト教』(新教出版)である。『カトリック新聞』と『キリスト新聞』も今や左傾のメロディで木霊しあっている。


・フランスの著名な神学者枢機卿のド・リュバックは、会議の内外での「危険な諸グループの存在と会議の攪乱工作」を指摘していた。最近一部公開されたミトローヒン(Mitrokhin)文書によると、リトアニア出身の複数KGB要員が60年代に偽装聖職者となってローマの神学校やグレゴリアナ大学だけでなく教皇庁の教会法改定委員会にまで侵入し、また教皇選挙人である枢機卿の有力者たちと接触を深めていた。


・同じ60年代にカトリック教会内に普及したのは、キリスト教マルクス主義といえる「解放の神学」である。第三世界で生まれたと自称するが、実は欧州の進歩的神学者たちが捻出したこの「神学」は、「神」を忘れた人間解放の新左翼イデオロギーだった。今日世界中で教会左翼運動の源泉になっている「正義と平和協議会」(Commissio pro iustitia etpax)がさしあたり実験的にローマに設置されたのも同時代、1967年のことである。「悪魔の妖気が神殿に入り込んだ」という教皇パウロ六世の有名な自責的発言(1972年6月29日)も、第二バチカン公会議の「精神」を騙る歪曲逸脱に言及したものである。


・因みに「解放の神学」の逸脱を憂えたローマはついに「自由のメッセージ」(1984年)と「自由の意識」(1986年)という指針を発表。前者はマルクシズムに根差す「解放」批判、後者は、神による「救済」に根差した「解放」評価の指針だった。正平協に毒された日本の司教団は後者を翻訳出版、前者を黙殺した。

(部分引用終)

大阪万博」について、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080206)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110511)に言及がある。

天皇制反対」について、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071214)を参照のこと。

「告白教会」に関しては、ボンヘッファーが日本では有名とされているが、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080206)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110519)に言及がある。

「解放の神学」の言及については、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130522)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20130827)を参照のこと。

「WCC(世界教会協議会)」については、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100811)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130105)を参照のこと。

偽装聖職者や教会内でのKGBスパイについては、リチャード・パイプス先生のご著書“Russia under the Bolshevik Regime”に示唆がある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140923)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141018)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141118)。特に第七章「宗教への急襲」(pp.337-368)が参考になる。要するに、「内部からの変革」と言いつつ、攪乱を狙う分子が暗躍しているということだ。
では、このようなキリスト教左傾化動向を、世間一般はどのように見ているのだろうか。一例を。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1175852026


キリスト教の学校もほとんどはリベラル左翼の学校ですね。ある意味、青山学院、上智などは徹底しています。
・学校のお勉強を熱心にやればやるほど、左寄りな思想がすり込まれるような教育システムになっているからではないでしょうか?
・小中高と社会、公民、政経、世界史、日本史、あらゆる社会科目で日教組の教師の言っていることを熱心に聞いていれば、そりゃ左傾化もするでしょう。
・きっとニュースや新聞も熱心に見ていますから、それでさらにすり込まれます
・そんな人たちが、「口ばっかりで仕事のできない高学歴」と呼ばれるんでしょうね。

(部分引用終)

上記の澤田昭夫氏のウェブサイト掲載記事は、恐らくは連載だったのだろうが、一部抜けているようだ。続きがいきなり最終回となっていた。

http://christ-ch.or.jp/5_torinashi/back_number/2007/2007_06/2007_06_report.html


カトリック教会の左傾化 (最終回)
君が代」反対から「沖縄米軍基地」反対 そして環境問題


筑波大学名誉教授 澤田昭夫
(月曜評論平成12年5月号掲載)


・1991年8月の「クーデター」と12月の「ソ連解体」で冷戦も共産主義も終ったというのは、KGB要員ゴリーツイン(Golitsyn)が、その『ペレストロイカ(再構築)の欺瞞』で断言するように、敵を無力化させるための逆情報という催眠術に他ならない(この「クーデター」については筆者の「共産主義は終わったか?」『文化会議』1993年7月号を参照)。現実は逆で、一方では相変わらずムチによる暴力革命、ゲリラ活動が続行され、他方ではアメによるグラムシ(Gramsci)型の巧妙な文化革命が展開されている。  


東ティモールでは独立を要望する多種多様な分子がCNRT(民族抵抗評議会)なる連合体を作り、ベロ司教指導下の現地カトリック教会もそれに参加していたが、「軒を貸して母屋をとられる」の言い回しどおり、独立革命後の実権を奪ったのは、残虐さにおいてインドネシア軍に劣らぬ左翼ゲリラ組織FALINTIL(東ティモール民族解放武装軍団)であり、その指揮官はイエズス会系ミッション校卒の詩人でチェ・ゲヴァラ型の革命家サナナ・グスマオである。  


・FALINTILはFRETELIN(東ティモール独立革命戦線)と並んで早くからWCCや正平協の物的、精神的援助を受けていたゲリラ組織である。チェ・ゲヴァラ礼讃ポスターが町角に見られるのが今日の東ティモールである。

 
・中国と蒙古との文化交流に従事しているベルギー・ルーヴァンのフェルビースト(Verbiest)財団理事長でスクート宣教会(日本では淳心会)の宣教師でもあるハインドリックス(Heyndrickx)神父は、「愛国教会」を公認させるための「橋梁」たらんと東奔西走している。  


・暴力革命よりも浸透力があり、危険なのはグラムシ型文化革命による共産攻勢である。なぜならそれはさまざまなフロント組織の裏で共産主義の顔を隠した文化運動だから、善意の一般信徒も一般社会人も容易に釣り込まれるからである。


・無条件の「債務帳消し」は実は決して貧困解消につながらず、むしろ貧困を恒久化する。貧困解消のハードウェアが均衡財政、低インフレ、民間企業主導を特徴とする自由市場経済であり、ソフトウェアが法の支配、民主主義、高識字率などであることは、先進国になったかつての途上国が実証しているところである。  


・無条件の援助、無条件の帳消しは途上国の政治腐敗や軍事支出のため、国威宣伝用の大型プロジェクトのために浪費され、民衆は一層窮乏化することになる。自由市場、民主、法治に向かう保証がなければ、債務帳消し後、先進国からの将来の援助も期待し難くなる。  


正平協だけでなく「債務帳消し」運動活動家たちの多くが貧困国の貧困の責任を自由市場経済世界銀行国際通貨基金、グローバリゼーションに負わせていることである。ドイツとフランスの巨大な教会系国際援助組織「ミゼレオール」MisereorとCCFD(反飢餓と発展のためのカトリック委員会)もその政策宣言で、同様に社会主義的臭気紛々の「緑党」的傾向を示している。ちなみに、CCFDはWCCと同様に、早くから、東ティモールのFRETLINはじめ世界のゲリラ組織に財政援助を行ってきた。


・アフリカ諸国の貧困化の一因は部族紛争、内戦であり、それを扇動してきたのは多くの場合共産系ゲリラ組織である。因みに、朝鮮総連と「IMF・世銀を問う会」と名を連ねて東京大司教白柳枢機卿が代表となって昨年12月になされた「債務帳消し」全国署名運動の署名用紙に「問い合わせ先‥アジア太平洋資料センター」とある。これは『フィリピン民衆革命へ・フィリピン共産党重要文献集』を編訳している左翼系組織である。


グラムシ型文化革命のひとつの頂点にたつのが、「ペレストロイカ」の立役者ゴルバチョフソ連大統領を中心に展開されている国連がらみの緑の運動、環境保護運動、地球憲章運動、そのネットワーキングとしての、「人間の顔」をした新共産主義である。


・彼(ユーリ注:ゴルバチョフ)もプーチンと同様KGB出身で、中身は小型スターリンとも呼ばれる人物である。彼は1991年の偽装クーデター後、役割を変え、建前上は共産主義から脱皮した優型の国際文化人に変身した。



カーネギー、フォード、ロックフエラー、メロンなど米国財団から得た300万ドルの寄付を基にサンフランシスコの歴史風致地区プレシーディオ(Presidio)の北端ゴールデン・ゲイト橋近くの歴史的建造物「海上保安隊駐屯所」を入手、「ゴルバチョフ財団」なる国際シンクタンクを設立した。


・世界的コネクションとリンクを操るゴルバチョフ・ネットワークの裏にある哲学は、環境倫理、地球倫理、ひとことで言えば無神論ヒューマニズムである。それが目指すのは、一つにはユダヤキリスト教の廃絶である。


・地球倫理で想起されるのは、「世界宗教者平和会議」(WCRP)のイデオローグで、神学教授職を停止させられたH・キュング神父の「地球倫理」である。それはキリスト教であれアニミズムであれ、みな同じ救いの道だとする相対主義、折衷主義である。


・「持続可能」という基本概念に基づく地球倫理は、三つめに、国民国家の廃絶を意味する。なぜなら、ゴルバチョフの息のかかった多数のNGOが支配的影響力をもつ国連のなかで、国民国家の主権は空洞化され、国民国家の頭越しに「シヴィル・ソサエティ」、「ワン・ワールド」の世界政府が全体主義的権力を行使して、「持続可能な地球」に相応しいと自ら判断する経済政策、社会文化政策、そして安全保障政策を決定、実施することになるからである。


・1991年にモスクワでヒューマニスト・クラブとして発足し、今や全世界に広がりつつある「ヒューマニスト運動」、そして、1997年2月のゴルバチョフ講演「ヒューマニズムと新思考」である。


ペレストロイカ以後の現代が必要とするのは多元主義、地球主義の、市民参加型ヒューマニズムだとする。


市場経済の時代は終ったとして資本よりも労働を、議会制民主主義より直接民主制を優先させる。


・東京四ッ谷の聖イグナチオ教会では、歴史や政治経済の専門家ではないらしい素人聖職者や修道女を講師に招いて「メルキセデク会」主催の地球環境問題研究講座が開かれた。その講座の広告チラシの裏面には、「明治以来今日まで他国を侵略して経済発展を続ける日本の社会構造を問う」映画「伊江島のたたかい」の鑑賞会(武蔵野公会堂)と鑑賞後の分かち合いの広告が印刷されている。


環境賛美と米軍基地反対の平和主義という、一見無関係の要素は、君が代反対、債務帳消し、緑、持続可能文明、ニューエイジ、地球倫理などと同様、ゴルバチョフ共産主義無神論ヒューマニズムのグランド・デザインのなかにきちんとはまり込む、ジグゾーパズルの駒々である。カトリック教会の全体が左傾化しているわけではない。左傾化しているのは、日本のカトリック・マスコミと教会組織の中間管理層や一部の修道会、司教団の一部である。


・教会の左傾化は、世界共産主義にとって記念すべき2017年に向けての地球社会全体を視野にいれた、赤い帝国主義的戦略の一部でしかないことを銘記すべきであろう。

(部分引用終)
グラムシ」については、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110819)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130108)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130311)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130402)をどうぞ。
「ハンス・キュング(ユーリ注:正しくは「キュンク」)」については、3月7日の小さな学会発表でも言及したが、何年も前に、既に他の研究会でもレジュメに書いた。その他、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080329)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080616)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20080620)もどうぞ。

著者:澤田昭夫プロフィール
1928年ワシントン生まれ。1951年東京大学西洋史学科卒業。
コーネル大学修士ボン大学文学博士。近代イギリス史、ヨーロッパ史専攻。
南山大学教授、筑波大学教授、日本大学教授、筑波大学名誉教授。

(転載終)
2015年3月24日にご逝去との由。驚きました。