マレーシア断章:キリスト教改宗
以下は、数年前に書きかけて放置してあった未完成メモです。組織立ったインタビューではなく、カジュアルな会話の中から導き出された話ですが、研究論文には引用できなくとも、れっきとした実体験に基づく貴重なデータだと思っております。(ユーリ)
「キリスト教改宗に関する断章:マレーシアのクリスチャン達」
Aさん:
父親は道教の祭司だったが、他に学校がなかったため、ペラ州のメソディスト系学校に通い、日曜学校でキリスト教の話を聞いて、洗礼を受けた。「父親の反対はなかった」という。
B博士:
サバ州客家の三世だが、第二次世界大戦中の日本占領期に、犠牲者となった両親がシンガポールを経由してペラ州に移住。本人はペラで生まれた。1970年代の大学生時代には、民間交流プログラムでマレーシアにやって来た日本の柔道師などから武術を習い、みそ汁を飲み、片言の日本語も覚えたりした。しかし、心の底では、日本人に対する憎しみや怒りが消えなかったという。ちょうどその頃、大学キャンパスでキリスト教伝道に出会い、信仰を持つに至る。所属教会は、牧師のいないブレズレンである。それ以来、日本人に対する否定的な気持ちが消えた。今は特に何とも思っていないという。ただし、靖国問題については別で、「今の日本人が、戦時中、我々にしたことを認めるならば、私達も許し、忘れる用意ができている」とのことである。
C師:
ヌグリ・スンビラン州クアラピラの出身。広東系。シンガポールで工学を勉強していた18歳の時、キリスト教と出会い、入信。若い頃から神学関係の本を読むのが好きだったという。マレーシアに戻ってから8年間公務員として政府関係組織で働いていたが、マレー人同僚ないしは上司の昇進のあり方に大変不満を持ち、やめた。その後、福音自由教会の牧師となる。40代前半、家族と共にイギリスに移り住み、ロンドン大学でカルヴァンの人生における神意に関する神学博士論文の準備をする。
華人虐殺の激しかった出身地から、キリスト教入信前は、日本人が憎くて仕方がなかったという。しかし、キリスト教の贖罪メッセージに触れ、自分達にも罪があったので神の罰としてこのような運命に至ったのではないか、と考え方が変わったそうだ。今では、日本の同系列の牧師などとも友好関係を持ち、限定的ながら日本人に対する見方は概ね肯定的である。ただし、「日本人は島国根性だ」という辛辣なコメントは消えていない。
D氏:
クランタン州コタバルの出身。インド系はこの地でごくわずかしか居住していないので、子どもの頃はマレー人と遊び、マレー語に堪能で、マレー文化の中で育ったという自覚がある。父はタミル系で母はテルグ系であり、父親の職業は病院勤務であった。ヒンドゥ教徒の家庭である。5歳の時、アングリカンのイギリス人宣教師からキリスト教の話を聞いたが、その頃は特に惹かれるものはなかった。大学進学のため、10代後半で首都クアラルンプールに出てきた時には、故郷と比べてあまりにも環境の差が激しく、毎日家で泣いていた。その頃、病気にかかり、家で寝ていたところ、夢の中でイエスの幻像を見た、という。そのイエスは、西洋画によくあるような白人の姿ではなく、「アジア人の顔」をしていた。インド系の顔だったかどうかはわからない、とのことである。都会の暮らしになじめず、つらい日々を送っていた彼は、その夢がきっかけでカトリック信仰を持つに至る。コタバルにいる父親に電話で改宗の事実を伝えると、怒って電話を切られてしまったという。母親は、父がよいと言うならよいが、息子の決心については特に何も反対はしない、という態度であった。
その後、姉妹やその配偶者などもヒンドゥ教からカトリックに改宗し、今はちょっとした有名なカトリック家系を形成している。両親はヒンドゥ教徒のまま亡くなったが、最終的には理解してくれたという。
(名前不明。インド系60代後半くらいの男性):
(NECFオフィスの前でタクシーを待っていたところ、オフィスから出てきて話しかけてきた)
自分は、マラヤ大学の第一期生の一人である。もともと、キリスト教は大嫌いだった。あれは白人の宗教だ。自分は肌が黒いから、キリスト教には向かない、と若い頃はずっとそう思っていた。その後、よい仕事を得て、アメリカにもしばらく住んだり、オーストラリアにもよく出張した。豪奢な暮らしも満喫していたが、こともあろうに、自分が愛していた娘が白血病になり、若くして亡くなってしまった。自分はもうどうしたらよいかわからず、自暴自棄になり、仕事は適当に済ませ、後はお酒を浴びるように飲み、妻以外の女性とも遊ぶようになった。これもそれも、愛娘を亡くした不条理と悲しみを紛らすためだった。妻は愛想をつかして、別居してしまった。しばらくたって、妻もいない、もう娘も戻ってこない、と気づいた時、自殺を図ろうと思った。ところがその時、とても不思議なことに、ある人がキリスト教の集会に誘ってくれたのだ。初めはためらいがあったが、そのうちに、自分の心の狭さと自己中心性に気づき、こんな父親では亡くなった娘も悲しむだろう、と思うに至った。そして、信仰を持つ決心をした。遠く離れていた妻には、自分から連絡を取り、正直に自分の過ちを詫び、心から謝った。許してくれないだろうと思った妻が、なんと寛大にも自分の所に戻ってきてくれたのだ。私はうれしかった。これもすべて神の導きによるものだ。今の私にはわかる、なぜ娘が夭折したのかが。娘ともいつか再会できる希望を、私は確かに持っている。
Eさん:
私の場合は、生まれながらのカトリック。親がカトリックだったから、幼児洗礼を受けている。でも、形だけの信仰ではない。なぜ、親がカトリックになったかって?それは、インドにいた頃の話に遡る。南インドで、宣教師達が私達のために、誠心誠意働く姿を見て、(あの人達は、自分の国に住んでいれば、もっと安楽ないい生活を楽しめたはずなのに、なぜ、私達の所に来て、こんなに一生懸命尽くしてくれるのだろう?)と思った。そして、そこに神の臨在を感じた。神は必ず存在する。だって、私達のために、私達を見捨てないで、こんなによくしてくださるんですもん。人間の意図を超えた意志が働かなければ、どうしてこの西洋人達が私達のところに、わざわざ来たの?神さまが触れたの。それしかない。それで、私達は、カトリックに改宗したのよ。(2004.01.29)
Fさん:
私と同い年のクアラルンプール育ちの福建人。未婚で、シャーアラムで祖母、母、妹と女所帯で暮らしている。昔はマレーシアが大嫌いだった。国を一度も好きだったことはない、という。マレー語で教育を受けた第一世代に相当する。高校では、理系クラスにいたが、クラスメートにはマレー人生徒がおらず、「私達の話す英語が、マレー人の子には早過ぎて、聞き取れなかった」と笑う。流暢な英語を話すが、メールのやり取りをすれば、彼女の英語にも基本的な文法ミスがないわけでもなく、確かにマレー語で教育を受けた世代だということがわかる。理系クラスだったのは、成績で振り分けられたからであり、本当に好きなのは、絵をかくことであったという。高校卒業後、2年ほど台湾で過ごし、それから絵描き友達とヨーロッパに渡り、何年か一緒に暮らした。「お金はどうしたの」と聞くと、絵を描いて売り、暮らしを支えていたが、「ヨーロッパでは、工夫すれば、マレーシアよりもはるかに安く生活できるのよ」と自慢する。キャンピング・カーに寝泊まりし、仲間と助け合って何とか数年は楽しくやっていたという。その後、何か思うところがあったのだろう、ハワイに渡り、大学と大学院修士課程に進んだ。心理学と宗教学の学位を取得した。ハワイ滞在も7,8年に及んだという。そこでプロテスタント系福音自由のキリスト教伝道師と出会い、信仰を得て、帰国したとのことである。帰国後は、しばらく社会福祉活動をしていたが、「神様に、私が今後どのように生きていったらいいのか教えてください、と祈った」ところ、現在勤務しているNECFが秘書兼リサーチャーを募集していることを知り、応募してみた。事務局長から数度にわたるインタビューを受け、最終的に採用決定。「これが神様の導きだったとわかった」。今は、マレーシアが好きになり、仕事にもやりがいと楽しさを感じている、という。特に宗教学でもう一つ学位を取りたい、と張り切っている。キリスト教信仰によって、自分の使命や生き甲斐を見出した一つの実例であるといえる。(2004.01.30)
G牧師夫人:
カダザンドゥスンのサバ出身40代。夫は牧師で息子一人をはさんで上と下に娘が一人ずついる。英語学校で教育を受けたが、自身はマレー語礼拝の教会で指導的役割を果たしている。マレー語へのキリスト教文献の翻訳も担当している。父親から譲られたというライデッケル訳のインドネシア語の聖書を大切にしている。「どうしてクリスチャンになったの」と尋ねたところ、「私達(カダザンドゥスン)は長い間ずっと、数々の精霊におびえて暮らしていた。何か悪いこと、例えば病気だとか若死にだとか事故にあったりなどすると、それは精霊のせいだと伝えられていたので、自分達は人生を受け身的にとらえていた。ところが、ある時外国からミッショナリー達がやってきて、『そうじゃないよ』とイエス・キリストの物語を紹介してくれた。私達は半信半疑で、教えられた通りに祈ってみた。そしたら、本当に祈りが実現した。そこで、私達が伝統的に恐れていた精霊よりも、イエスの方がパワフルであることがわかり、キリスト教に改宗したの」。
(2004.03.16)