ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

学会発表の後に...

先月中旬の学会発表(参照:2011年9月20日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110920))で使用したパワーポイントと文献一覧表(謝辞付き)を、アメリカの南メソディスト大学神学部のハント先生宛に送ったところ(参照:2011年9月30日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110930))、先程、メールが届いていました。
ハートフォード神学校の時も思いましたが(参照:2008年4月14日・4月16日・4月17日・4月18日・2010年7月29日・2011年9月12日付「ユーリの部屋」)、アメリカ人の先生は、人を褒めるのが上手。もちろん、社交辞令というニュアンスを含めていることは了承済みですが、同じ分野を別の国の後進が孤軍奮闘していると知るや否や、うまく励まして続けるよう促すのです。決して、利害関係があるわけでもないのに、です。
これは、それだけ競争が激しい社会に生きていらっしゃるからではないか、ということが考えられます。そして、テーマの重要性を身にしみて感じていらっしゃるからではないか、という点も。ここでセンスが問われるのだろうと思います。
例えば、日本人のある先生から「せっかく集めたから、ついでに並べました、という感じで、自分が持っている資料を全部公開するな。必要なものだけ出せ」とコメントされたことがあります。大変申し訳ないのですが、この分野の資料の性質を全くご存じないから、そのように言えるのです。たったの25分間、口頭発表するのに、一言一言、リストに挙げた全ての文献の存在意義が含まれているのです。換言すれば、あっちにちょこちょこ、こっちにちょこちょこ、まとまった言述が存在しないことそのものに、問題というのか特徴があります(参照:2011年9月11日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110911))。だから、本当に手間暇のかかるリサーチです。話の筋そのものは単純なのに、事情としては入り組んでいますし。理論だけやっていては、到底手が回らない。これに気づかず、「あなたは知らないのでしょうけど」と、高みから指導したつもりになっている、ということは、何を意味するのでしょうか。
僭越ながら、私なら、疑問に思った際、「なぜそのようなやり方を採用したのですか」と、理由を尋ねます。多分、こちらの気づかない背景や事由があるのだろうと想像するからです。
かつてMITに留学し、ニュージャージーでも勤務していた理系の主人に言わせると、「日本は甘い」「大学だから、そんな変なことが通用するんだ」「アメリカは厳しいよ。世界中から人が集まってくるから。それだけに、人をエンカレッジして何でもやらせようとするよね」と。

話を元に戻しますと、日本の学会で発表したもののため、翻訳はつけずに日本語のまま送っていますが、画像が多いので、筋は辿れるらしく、「詳しいニュアンスまではわからないけど、発表の内容はわかるよ。他の研究者にとっても、役に立つ文献一覧表ではないかな」と。もっとも、ハント先生の文献も含めていますので、確認はすぐにできるはずです。
私としては、いろいろ教えていただいているので、適宜、ご報告だけはしておかなければ失礼かと思ってのことなのですが、言語の相違を超えて、伝わるものは伝わるものだと。
そして、現在では公正さに基づく情報公開が原則。瞬時にインターネットで世界中に広まります。自分一人だけ知っているなんてことは、あり得ないと実感しています。公表した途端に、もっと詳しい人が出現するのが世の中。正直に公正に語っていれば、そのことで批判される筋合いはないと信じています。だから活性化するし、楽しいのです。
時々、自分が損するから盗まれないように、といって、論文で公開するまで情報を握りしめている人がいますが、どこか滑稽な感じがします。まずもって、本来、誰のための、何のための研究なのか、本筋がずれているような気がします。所詮、人間の手になるものは何一つない。そのように見えているだけ....。
オープンにしていた方が、かえって情報も人とのつながりも自然に流れ込んでくる、そんな感触を持っています。