ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

共同祈祷の背景

2011年4月26日付ツィッターhttp://twitter.com/#!/itunalily65)に書いた、英国国教会司教のKenneth Cragg名誉教授が編集した『ムスリムとクリスチャンの霊的詩文選:共同祈祷』(拙訳)の件で、まさかとは思いますが、誤解があってはいけないので、現在の段階での私見を、ここで少し述べます。
Kenneth Cragg教授は、かつてエルサレムにも副司教として長期滞在され、アラブ・ムスリムとの関連で、膨大かつ非常に難解な著作を多数公表されています(参照:2008年1月7日・2月24日・3月29日・5月21日・5月22日・6月19日・6月20日・6月27日・2009年5月6日・2010年3月11日付「ユーリの部屋」)。英語の構文が複雑で、使われている語彙も難しく、辞書を何度も引く作業が欠かせませんでした。内容に相当の関心や必要性があって初めてやっと読めるといった感じです。その意味で、アメリカで出版された類似の英文著作とは、趣が異なります。
かなりご長命の方のようですが、今はどうしていらっしゃるか、私にはよくわかりません。
このようなムスリムとクリスチャンが共通項を重視して共に祈るという祈祷文は、まず、その動機が問われるのだろうと思います。キリスト教が大切に守ってきたアイデンティティが、ここで侵食されていく可能性も否めないわけですし、私自身、手にしてはみたものの、正直なところ、かなり抵抗感があります。やはり、キリスト教キリスト教であり続けてほしい、と願うからです。自分が長年慣れ親しんできた雰囲気の中に安住しているのが、心理的にも楽だからです。
恐らく、多くのムスリムも、ムスリムとしての似たような感触を持つのではないでしょうか(と、想像されます)。
英国で、ムスリムとの関係や対話のパイオニア研究を続けてきたような複数の専門家(その多くが牧師資格有ないしは司祭職にある)にとっては、常に、己の中のこの抵抗感や葛藤と闘いながら、現実として何か成さねば前進しない、という必然性に駆られているようです。事実、アメリカのハートフォード神学校で教鞭をとり、今はハーヴァード大学に移られたJane I. Smith教授が、次のように書いていたのを思い出します。
「Kenneth Cragg教授の仕事に対しては、多くの見解や批判があるが、彼自身、内的にとても深い葛藤を抱えていることは事実だ。でも、この仕事に正面から取り組むことによって、彼はよりよいクリスチャンになれたのではないかと、私は思う」と(参照:2008年6月27日付「ユーリの部屋」)。
その難解な構文に苦労しながらも、なんとか著書を集めて読んでみたのは、むしろ、レベルや次元は異なるものの、私自身、リサーチ関連で、その「葛藤」に共通するものがあるからではないかと思います。ただし、そのことによって、自分がよりよい人間、よりよいクリスチャンになり得ているかどうかは、大きな疑問。正直なところ、(早くこの長い葛藤から逃れて、先に進みたい)。それとも(もう終わって欲しい)と願うこともしばしば。(そもそも、自分の人生は、あの頃から間違っていたのではないか)(最初から、なければよかったのに)などと、繰り返し逡巡しています。
上記の祈祷は、心あるムスリムとクリスチャンの真摯な対話会合において、その始まりと終わりに唱えるならば、意味があるだろうと思います。でも、教会内では少なくとも、使って欲しくはありません。教会は、あくまで聖書から、聖書を語り続けて欲しい、それが私の正直な願いです。
別のインタビューで、かつてKenneth Cragg教授はこうも語っていました。「ムスリム自身が気づくまで、私は待つ」と。
果たして、この試みが‘成功’する可能性があるのでしょうか。
実は、このようなことに長年取り組んではいても、Kenneth Cragg教授は、保守信仰の持ち主なのだそうです。一見「リベラル」なように思われそうですが、実はそうではないのです。保守だから、相手との相違がよくわかる。しかも、その問題点までよくわかる。だから、何とかしなければならないのではないか、そこから事は始まっているのだ、と私は理解しています。
ただし、私が昨年9月と今年3月の学会で発表した、19世紀前半のロンドン伝道会派遣のB牧師が試みたような、あからさまに挑発的で対立的なやり方は、決して有効ではありません(参照:2010年8月11日・9月12日・9月15日付「ユーリの部屋」)。それのみならず、後世に禍根を残すことにもなることが、既に現在では明らかなために、アプローチを変えているというのが、Kenneth Cragg教授。
その努力は、並外れて相当なもの。例えば、『モスク説教』という別の著書があります(参照:2008年6月19日・2009年5月6日付「ユーリの部屋」)。これは、クリスチャンである著者が、もしクルアーンを使ってモスクで説教をするとしたら、このような展開になるのではないか、という仮想のもと、「未だ現実には語られたことのない説教」を綴ったものなのです。手元にはあっても、私は読めていませんが、とにかくすごい。換言すれば、ここまで食い込む必要に駆られるほど、根は深いということなのです。
ここで私のささやかな願いを。DVDで『ヤコブへの手紙』を見た時にも感じましたが(参照:2011年3月25日・3月28日付ツィッター)、聖職あるいは教職にある人は、自分の守備範囲外だからといって、助けを求めてきた人を簡単に遠ざけるのではなく、ただひたすら、その人の最善を願い、祈り続けるような存在であっていただきたい、と。口先の甘言で人々に媚びるような態度ではなく、何があっても毅然として、基本に忠実に。密やかであれ、公然とではあれ、ご自身の選択した道における筋を通してほしい、と願うのです。
時に、私自身がどこかで不信感を持たれているのではないか、と不安になることもあります。それは、相手方の、本気で事を理解しようとしない曖昧な態度からくる誤解や齟齬に基づくものが多いのですが、場合によっては単純に、その性格の不実さや、いい加減さからくるものでもあります。ただ、わかってくれる人も決して皆無ではない。いえ、実は少なくもなかったのです。
では、どうして今また、この理不尽さに悩まされることになったのか。それは、果たして私が受けて立つべき挑戦なのか、それとも、早々と見切りをつけて葬り去るべきものなのか、よくわからないからです。
今のところ、すぐに回答が出せる類のものではありません。さまざまな思惑やしがらみや力学などが、複雑に絡んでいる問題だろうと思います。ただし、私の方は、なすべきことがとりあえず、はっきりしています。なぜそれが可能か、と言えば、ただ一筋に、現実に生起した出来事に対して、時間はかかっても、私なりに全力を挙げて向かおうとしたから。
問題は、そこに意味なるものが存在するのかどうか、なのです。無意味の意味?意味の無意味さ?それとも、問いかけに対する一つの応答?でも、その道筋は?

Kenneth Cragg名誉教授の上記編纂書は、我田引水的かもしれませんが、このような観点から理解されるべきなのではないか、と愚考します。

PS:ムスリムとの共同祈祷に関しては、以前にも少し言及しています。スコットランド監督教会司祭でいらした故Montgomery Watt教授の祈祷は2008年6月14日付「ユーリの部屋」を、牧師資格を有するエディンバラ大学のHugh Goddard教授による、ムスリムを招待してのノッティンガムでの英国国教会の祈祷の試みは、2008年6月24日付「ユーリの部屋」を、それぞれご覧ください。