ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

優し過ぎるクリスチャン?

今日は、大雨のために、一日中本を読んで過ごしました。
本といっても、これまでたびたび言及したMark Beaumont氏の『ムスリムとの対話におけるキリスト論:9世紀と20世紀のムスリムのためのクリスチャンによるキリスト提示の批判的分析』(2005年)という博士論文の出版です(参照:2008年6月16日付「ユーリの部屋」)。
キリスト教護教論家の皆様、イスラーム発生当初から大変な苦労を積み重ね、さまざまなアプローチを試みてこられたんですね。でも、圧倒的優位を誇るムスリム知識人から、あっさり却下されたり否定されてきたのですから、この努力、どこでどう報われるのかって思ってしまいますよね。とりあえず、つべこべ言っていないで、イスラーム服従せよということなのでしょうか。
とはいえ、キリスト教側の対応や見解の変遷の方が興味深いものです。現代に生きる我々にとっては、当然のことながら、歴史から学べという教訓です。

本書の中で紹介されている事例で(p.167)、ジョージ・ワシントン大学で教鞭をとっていたイラン出身のムスリム学者Seyyed Hossein Nasr氏が、1995年に出版された本で、ムスリム・クリスチャン対話の問題を、次の7点にまとめられたそうです(出典はS.H. Nasr Comments on a Few Theological Issues in the Islamic-Christian Dialogue’in Y.Y.Haddad and W.Z.Haddad(eds.) “Christian-Muslim Encounters”, Gainesville, 1995, pp.458-465)。

1.イスラーム受肉/托身を否定する。なぜなら、絶対者は比較の領域に入ることができないからだ。象徴的な受肉/托身ならば可能である。

2.イスラームは人類史の現在の期間において最終性を主張する。イエス自身は、ムスリム預言者と同定する仲介者の役割を予告したのだ。

3.クルアーンは神のことばである。クリスチャンのほとんどはこれを受け入れなかった。だがほとんどのムスリムは、聖書は廃棄されたか変更されたと見ている。

4.クリスチャン達は、過去一世紀半、クルアーンアラビア語の広がりを限定してきた。

5.イスラーム法は、一組の原則のみならず、一組の法典化でもある。クリスチャン達はこの真実を低く見積もろうとすべきではない。

6.キリスト教イスラームは、イエスの人生の最後について、二つの矛盾する説明を有する。

7.宗教は、必然的に私的領域に退去するというモダニズムやポスト・モダニズムの仮定条件は、神の言葉によって全人生が支配されるというイスラームの確信と対立する。

これですよ、これこれ。私も経験しました。ものすごく自信たっぷりなんですもん、ムスリム学者の人達って。とりあえず、都合の悪い事に関しては他者を指差して欠点をあげつらい、イスラームこそが最終で勝利に終わるべし、という態度のようなんです。
独立前後にマラヤにいた、ある聖書翻訳者の手記にも、似たような観察があります。確か、“Bible Translator"だったと思いますが、「マレー人は、仮に自分達の社会経済的劣位を認めたとしても、宗教的には自分たちの方が絶対上位にあるという自信に満ちている」などと書いてありました。
ブミプトラ政策も、日本の研究では民族問題として取り扱うのが主流でしたが、あるマレーシア華人のクリスチャンに言わせると、「あれだって、実はイスラームの考えから来ているのよ」。そうなんですよね。だから、「100点満点の試験で、マレー人学生には40点取れていれば合格にするように」なんて変てこりんな要求が、1990年代初頭の勤務期間中、マラヤ大学から我々日本人教師に平気で出されたんです。あの時は、さすがに皆、あっけにとられてしまい、こちらで対策を練るべしというわけで、試験の水準をかなり高度にしました。だいたい、非マレー人なら同じ試験でも60点取れなければ合格じゃないのに、どうしてマレー人は40点で合格になるのか、それでいて日本留学するというのですから、こちらが何だか馬鹿にされているみたいでした。
ある教育学の研究者の表現を借りるならば、マレーシアは「機会の平等」ではなく「結果の平等」を推進しようとしている、ということになるのですが、理論的にはそれで通っても、現実にはたまったものじゃありません。
神学者ヒックの場合、キリスト教の絶対性に不快感を持っていた人々やムスリムには受けがよかったようですが、一般のクリスチャン達には実りがないようです(p.161-162)。神学者は、ムスリム知識人との対話で、対立を避けたいがためにどこか妥協してしまいがちなので、こういう不均衡が起こってしまうのでしょう。その点、Kenneth Cragg教授は別格でした。いわゆる保守的な福音主義的なキリスト教信仰を保持したまま、ムスリムに考えを変えるよう迫ったのだそうです。しかも、95歳の今でもお元気に出版活動されていて...(参照:2008年6月19日付「ユーリの部屋」)。
また、著者の「多元主義者達も伝統的なクリスチャン達も、他の宗教の人々に対して等しくよき隣人であることはできる。ムスリムへの愛は神学だけに依存するものではない」(p.162)という言葉は傾聴すべきだと思います。
イスラエルのガイド氏が「クリスチャンは優し過ぎるんですよ。だから、ムスリムに押されて自分が国を出て行かなければならなくなる」とおっしゃっていたことも、合わせて思い出します。