ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

我が師・我が友

ムスリムの断食明け挨拶に、「自分のしたことでご迷惑をかけたならば、どうぞお許しください」という意味のことばが含まれています(Selamat Hari Raya Aidilfitri. Maaf Zahir dan Batin.) 。これを知ったのは19年前、インドネシアとマレーシアで見つけた季節のカード売り場でした。
ただし、どうやらムスリム同士でしか交換しないカードのようで、私が元日本留学生のムスリムの知り合いに送っても、クリスマス・カードのようにお返事が来たことがありません。若かったので許されたようなもので、今なら、やはり非ムスリムとして一線を画すべきであると承知しております。同時に、そこが、キリスト教イスラームの大きな違いの一つであるとも思います。
しかし学ぶべきは、カード交換の人的範囲ではなく、カードに書かれた言葉です。イスラームの原罪観念の欠如とは、キリスト教側からよく指摘されるところではありますが、このように、罪の赦しを請い合う側面を有する点は、見過ごされてはならないでしょう。もっとも、何をもって「罪」と範疇化するかが問題ではありますが。
そこで、非ムスリムのはしくれとして、今年の締めにあたり、誤解のなきよう、一言添えさせていただきたく思います。もし、不要な誤解を招いたとするならば、上記に倣ってお詫び申し上げます。

そのお詫びの内容は、「私には師がいない」「日本には先生が存在しない」の意味です(2008年3月27日・2008年3月28日・2009年12月18日付「ユーリの部屋」)。
主人が諭すには、「あのなぁ、理想ばかり高く持っていても駄目なんだって。常識から考えて、今の日本に期待したって無理だよ。ユーリは、ある面で余裕があるんだな。聖書を最初から最後まで、何回も読み通す人なんて、クリスチャンでも少ないかもしれないよ。なのに、それを知らずに、夢みたいなことをいつまでも待っていたんだよ」とのこと。でも、愚鈍な私は、本気でそのように考えていました。
実は、日本中、めぼしい先生や機関に手紙を書いたり、指導教官になってくださりそうな方にご相談したり、という努力だけは、過去19年間、してきたつもりです。結婚を機に名古屋を出てよかったと感じたのは、このテーマに関しては、関西の方が京大と民博の図書館と神戸の市立図書館に、結構な資料が集まっていたからです。(名古屋には、調べた限りでは、ほとんど揃ってはいませんでした。)では、首都圏ならもっと揃っているかと言えば、残念ながら、瞥見の限りでは、散在程度で、複写依頼で取り寄せ可能なものばかりでした。

ところで、私が勝手に想定していた「指導教官」つまり「師」およびその関係は、大凡、次のようです。

まずは手書きの書簡で先生に、滞在経験から浮上した問題意識について、どのように道筋をつければよいのか、ご相談する
→「では、何日の何時にここへ面接に来なさい」とお返事をいただく
→「あなたのテーマは興味深いですね。ところで、今、どのぐらい勉強に時間とお金が割けそうですか。第二外国語は何をやり、どの程度できますか。証明できる資格には、何がありますか。家庭環境については、どのような状況ですか」などと、具体的な質問をされる。これによって、続けるべきかどうかの資質判定をされる
→ もし、それにパスできたならば、次の質問はこうである。「そうですか。では、オランダ語は、そうですねぇ、○○先生の個人授業をとってもいいが、まずは自学自習することですね。参考書なら、あれがいいですよ。でも、これはやめておきなさい」と指示が出る。数ヶ月経ってから、経過報告するよう申し渡される
→ 帰り道に、さっそく大型専門書店か大学近くの古本屋さんに立ち寄って、オランダ語の自習書を探して、できれば購入する
→ 勉強を始める(多分、おもしろく思うだろう)
→ 半年後、ないしは一年後に、報告を書簡で送る。内容は、オランダ語学習のみならず、研究会や学会での口頭発表およびエッセイなどがどのぐらいできたかも添える
→ もし合格したら…
→ その先生から、「わかりました。あなたが本気であるということが(ただし、実力は別ですよ、とも言われる)。では、知り合いのオランダの大学教授に手紙を書いてあげましょう。あなた、そのテーマなら、まずはインドネシア、いや、ジャワから始めるのが筋ですよ。そして、スマトラも見ておくんですな。まぁ、学校を出て、先方からマレーシア派遣を指定されたのだから、マハティール政権のルック・イースト政策時代としては、やむを得なかったでしょうがね。ハ、ハ、ハ...。ま、急がんでもよろしい。長い目で見て、じっくりと取り組みなさい。道筋だけは示してあげましょう。どうやら、あなたは、変なところで右往左往する癖があるらしいですからね」というような話がもたらされる。
→ しばらくして、先生より、自宅に電話が突然かかってくる。「あなた、オランダに行く必要はありませんよ。オランダで聖書翻訳の専攻で博士課程まで持つ大学の○○教授が、来月、東京に来られるそうです。日程は○○。場所は△△。当然、予定は空けておくんですよ。私からも、話をつけておいてあげましょう」。

もちろん、先生がかりではなく、その間、必死になって、自分の行動範囲内で資料を集め、読み込み、マレー語とインドネシア語の聖書も音読し、疑問点に付箋をつけてノートをつくっておくのです。基本は自分でやるのですが、道筋というのか、方向性というのか、今後の鳥瞰図は、やはり師たるものの存在が不可欠です。

…でも、私には、国内に「師」がいなかったのです、今までのところは。ですから、上記の会話はあくまで夢想と願望の域を出ません。そして、将来に希望をつなぐのです。

そうはいっても、ある国立大学の某先生の元で、短期共同研究員に採用されたことはあります。9年前のことでした。オランダの大学で博士号を授与され、首都圏の有名な某キリスト教大学(とぼかしましょう)を卒業された方でした。マレーシアのご専門ではありませんが、お隣の国インドネシアにご夫妻で赴いて研究されていたので、私としては大変に期待しておりました。
しかし、先生は、開口一番、このようにおっしゃったのです。「研究テーマの要旨を読んで、おもしろいと思った。気がつかなかった」。
唖然として言葉のなかった私に対して、続けて「この大学には、資料はありません。都内のどこへでも、支給された研究費を使って行ってください。古い新聞のデータベースはありますから、それを見てもいい。ただし、ゴミの山からダイヤを探すようなものですからねぇ」。
ますます混乱して呆然としている私に、こうも言われました。「うらやましいです、やることがいっぱいあって…」。

それでも何を言われているかわからなかった私は(←こういう点、非常に察しが悪く鈍いのです)、「はぁ…」としか言いようがありませんでした。内心、(先生、何をおっしゃっているんですか。海外の博士号もお持ちなのに…)と思ったことだけは覚えています。なぜならば、私に向かっては、「まだやっているんですか。長いですねぇ」とも言われたからです。これが、(事情知らずの)外側からの押し付け歪曲コンプレックスでもあるのですが。それに、こうも言われました。「私も、ジャワ語の聖書を持っていますよ」。
お言葉を返すようで恐縮ですが、その時も、(いえ、聖書って、持っているとか見たことがあるとかでは、全く役立たずなんです)と内心思ったことも覚えています。結構、反抗的なのですね。そして、頑固で強情。

自分でひもといて(平たく言えば、ページを開いて)、本文と格闘するんです。ダイジェストじゃだめですよ。まずい訳でも、とりあえず母語から始めるんです。定評ある版なら、まずは大丈夫。そこから始めること。だって、日本以上に古い歴史を有する民が産み出し読み継いできた古典中の古典ですよ。そんなに簡単にわかってたまるものですか。そこは謙虚に、気長に、根気よく、です。かくいう私も、かれこれ25年間、そのようにしてきましたが、今でも毎回、新しい発見があります。最近では、ユダヤ教徒の聖書の読み方を知る機会に恵まれたので、また新たな学びも加わりました。とっても楽しいです!

...と、書いてはみましたが、物事は両面から見なければなりません。
実は、この道程に、非常なる利点が含まれていたのです。なかなか得難い経験であり、これも時代の流れとも言えるかと思います。
それは、このブログでこまごまと折に触れて書いてきたように、国内で「師」が見つからなかったからこそ、インドネシアのスシロ先生から懇切丁寧にご教示いただく機会に恵まれたのです。アメリカのロバート・ハント先生からも、面識が無くとも「ロバートと呼んでください」などと書いてくださったりするほど、親近感を持っていただけました。ニュージーランドのロックスボロフ先生(参照:2009年10月16日付「ユーリの部屋」)からも、肯定的に認めていただき、「何かあったら、いつでも遠慮せず連絡しなさい」と、激励までされました。
その他、マレーシアとシンガポールインドネシアのさまざまな方達から、有形無形の支援や手助けや励ましやご親切をいただくことができたのです。そうすることで、誰の言説が真であるか、肌感覚で判断できるようになってきました。
これこそ、我が師我が友に他なりません。